※大学の授業で発表する際のレジュメとしてとして書いたものです。専門家でも何でもない、一介の学生が書いたものなので、この文章を「参考文献」にしたり「引用元」にしたりしても、あなたの論文の信頼性を高めることはできません。ご注意ください。

ただ、一番最後にある参考文献一覧を見れば、参考になる文献が見つかるかも知れません。

 

2012年12月25日

歎異抄 第十条 考察

 

【0】歎異抄とは?

このページに簡単な説明があります。 → 歎異抄要約(別窓で開きます)

 

 

【1】本文と注釈

 

「念仏には(1)、無義(2)をもつて義(3)とす。不可称(4)・不可説(5)・不可思議(6)のゆゑに」と仰せ候ひき。

――――――――――――――
(1) 念仏においては。
(2) 自己流の意味づけをしないということ。ここでの「義」は、人間の思慮・分別に頼ったはからいを意味する。
(3) ここでの「義」は、根本となる道理のこと。本義。
(4) 言い表すことができない。
(5) 説き明かすことができない。
(6) 人の思いはかりを超えたものであるということ。

 

 

【2】ひとまず口語訳

 

「念仏においては、自力作善ができるという思い込みも、自分の知性で正しいことが分かるという思い込みも捨てて、阿弥陀にすがることを本義とします。阿弥陀の働きや慈悲深さ、そしてそこから生まれた念仏と往生の仕組みは、言い表すことも、解き明かすこともできない、凡愚である我々の思考能力を超越したものであります故に」と親鸞聖人はおっしゃった。

 

(どうしてこのような訳になるかは、次の項目で説明します) 

 

 

【3】考察

 

2-1 第十条の立ち位置とその重要性

 

 歎異抄の構成は以下の通りであると考えられている。

 

漢文序
第一条~第十条    親鸞の語録
別序
第十一条~第十八条  唯円の異議批判
後序(総結)<注1>

(不可欠の付録として、流罪記録を伴う )<注2>


 なお、佐藤正英氏は現存の形態には錯簡が生じていると指摘し、本来は別序・第十一条~第十八条・後序の前半部分が前に来ていたと主張している 。<注3>

 

 親鸞の語録が先であろうと、唯円の異議批判が先であろうと、第十条が親鸞の語録の締めくくりとなっていることに変わりはない。このことから、第十条は、迷える門弟たちに向けて親鸞(および唯円)が最も伝えたかった言葉なのではないかと推測できる。

 

 また、構成的にも、第十条は親鸞の語録の最後に置かれる必要があったと言える。アルフレッド・ブルーム氏は次のように述べる。

 

『歎異抄』第一部の結論ともいうべきこの一文において、親鸞は、念仏とか阿弥陀の本願の意味を説いたり、明らかにしたりするのにどれほど多くの言葉を費やそうとも、究極的にはそれは逆説であり大いなる不可思議であることを示唆しようとしているのです。興味深いことですが、唯円房はこの文を親鸞のことばの最初にではなく最後にもってきています。ここでは議論を避けたり質問を封じたりするために不可思議を用いているのではなく、問題をできる限りの深さまで追求した結果、結論として出てきたものであり、この意味においては、第十章は知性と精神の謙譲さを反映するものです。 <注4>

 

 第十条を最後に持ってくることは、「いろいろと考えてみましたが、結局は阿弥陀のお考えの深さは凡愚には測りかねるのです」という、ある種の自力(自分の思考力に頼って真理を得ようとすること)の放棄宣言を演出する。
 自力作善ができるという思い込みだけでなく、自分の知性で正しいことが分かるという思い込みとも決別して、親鸞の言葉は締めくくられているのである。

 

<注1> 伊藤益『歎異抄論究』北樹出版,2003年,p17

<注2> 伊藤益『歎異抄論究』北樹出版,2003年,p23

<注3> 伊藤益『歎異抄論究』北樹出版,2003年,p20~25

<注4> アルフレッド・ブルーム著、徳永道雄訳『現代思想と歎異抄』毎日新聞社,1987,p130

 

 

2-2 圧倒的短さ

 

 第十条は大変短い。
 どの程度短いかというと、多くの書物に目を通してきたであろう大学教授のブルーム氏が「おそらく世界中のどの本にも見られないほど短い一章です」<注5 と称するほどである。
2-1に引用したブルーム氏の言葉通り、第十条は親鸞の語録の最後に置かれる必然性を有している。他の条のついでに差し込むことは許されない重要な一文だったために、いくら短かろうと独立した一条として書かれたのだ。(ちなみに各章の内容からしても、十章を受け入れられるものはない。歎異抄要約参照。 ※別窓で開きます)
 この短さは無義を体現しており、むしろインパクトが感じられる。

 

<注5> アルフレッド・ブルーム著、徳永道雄訳『現代思想と歎異抄』毎日新聞社,1987,p129

 

 

2-3 第二の「仰せ候ひき」

 

 親鸞の語録の中で、第三条と第十条だけが「云々」ではなく「仰せ候ひき」で結ばれている。
 このことについては、佐藤正英氏が第三条の項目で先行研究への論駁と共に詳しく考察しているため、私も彼の研究をなぞる形でこの問題を考えてみようと思う。

 

 増田文雄氏は、第三条の末尾において突如として唯円が顔を出すのはおかしいため、これは親鸞の言葉の一部であると主張した。
 しかし、他の条の「と云々」は唯円が親鸞の言葉から引用したということを示す語であり、第九条の冒頭部にも唯円の質問が入っていることから、親鸞の語録には親鸞の言葉だけではなく、唯円による地の文も含まれていることが分かる。
 もし他の条の「と云々」が親鸞による言葉で、「そのように法然上人はおっしゃいました」の意であるならば、これは親鸞の語録ではなく親鸞を通して語られた法然の語録ということになる。それなら一言但し書きがあるはずだが、序文には「故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留むるところ、いささか、これを注(しる)す」とあるだけである。このことから、「と云々」や「と仰せ候ひき」は親鸞の言葉の一部ではなく、唯円による地の文であると判別される。

 

 了祥<注6>と藤秀璻(しゅうすい)氏は、第一条から第三条まで、第四条から第十条までがそれぞれに別個のまとまりをもっていると考え、「と仰せ候ひき」はその切れ目を示すものであると説いた。しかし、各条の内容を見てもそのような区分があるとは感じられない。(歎異抄要約参照。 ※別窓で開きます)
 このことから、「と云々」と「と仰せ候ひき」には意味の違いはないと考えるのが妥当なようだ。

 

 佐藤氏は次のように結論づけた。

・「と云々」は「と仰せ候ひき」の省略形である。
・多くの条で省略形を用いたのは、いちいち「と仰せ候ひき」と書いていたのでは文章が無駄に長くなるため。省略しても、前後の関係から親鸞の言葉の引用であることが明白と思われたことも後押しした。
・第三条と第十条では、「と」で受けている親鸞の言葉が一行以下の短さであったため、「云々」という省略形を用いる必要がなかった。また、云々としたのでは落ち着きのない文になるという配慮から、省略せずに「と仰せ候ひき」と書いた。

 

 私はこの説に同意した上で、さらに伊藤益氏の説も取り入れたい。
 伊藤益氏は、第三条と第十条はとりわけ重要な意義を持っていたがために、「「云々」という端的な結びではなく、「仰せ候ひき」というやや荘重な響きを伴い結びとなってあらわれたと見ることも不可能ではないであろう」<注7>と記している。特に第十条は親鸞の語録を締めくくる章なので、このように考えることはより一層自然なことである。
 佐藤氏の説と伊藤益氏の説、両方の要因が合わさって、歎異抄の末尾はこのような形式になったのだと推測する。

 

<注6> 江戸後期の学僧。『歎異抄聞記』を執筆し、歎異抄の作者が唯円であるという説を提唱した。

<注7> 伊藤益『歎異抄論究』北樹出版,2003年,p69

 

 

2-4 無義をもつて義とす


 義という言葉は、親鸞においては「はからい」という意味で使われる。
 伊藤益氏の文章が非常に分かりやすかったため、以下に引用する。

 

「はからひ」とは、自己の意志に基づいて作為的に何ごとかをなすこと、あるいはなそうとすることを意味する。それは自力の作意ないしは行為といってもよい。したがって「無義」ということ、すなわち義がないということは、自力の作意ないしは行為がないという事態であり、端的に言えば他力を意味することになる。<注8>

 

 この解釈からは、「念仏は他力を本義とする」という現代語訳が導き出せる。

 

 伊藤博之氏や多屋頼俊氏は、「無義」の義を行者のはからいとし、「義とす」の義は本義と解釈しているが、それに反論する形で、河田光夫氏は次のように主張する。親鸞は手紙の中で「義といふは行者のはからふ心なり」と明言しているのだから、「無義」の義も「義とす」の義も「行者のはからい」として捉えるべきである。つまり、「無義をもつて義とす」は「答えないことをもって答えとする」と同様の言い回しで、「行者のはからいがないことをもってはからいとする」という修飾的な表現なのだと。


 しかし、「自力の行いをしないことを自力の行いとする」という表現は、意味のある文として認識できるだろうか。答えないことを答えとすることはできるが、自力の行いをしないことを"自力の"行いとすることはできないのではないだろうか。義という単語をすべて「行者のはからい」と捉えるべきだと主張しながらも、二度目の「はからい」に「行者の」をつけずに「行者のはからいがないことをもってはからいとする」<注9>と書く河田氏の手法には、ごまかしを感じる。


 確かに、言葉遊びとしてなら、どちらの義も「行者のはからい」と解釈できる。浄土教の他力の思想を受け入れ切れず、自力作善の修行をしなければならないのではないか、自分の行動には「義」があるべきなのではないか、と戸惑っている人々に対して、「私たちに自力でできる行などありませんが、強いて言うなら自力を諦めすべてを他力に委ねること、それが我々凡愚にできる最大限の行いであり、最善の選択でしょう」と諭すようなニュアンスを感じる。


 しかしこれはあくまで言葉遊びなのである。人間に念仏(自力を諦めすべてを阿弥陀に委ねること)が可能となるのは、ひとえに阿弥陀のはからいによってであって、自力のはからいのためではない。「他力にすがることが最善の選択です」というのは、何か少しでも自分の自由意志で善なる行為を選択しなければならないという強迫観念に囚われた人に対しての気休めにすぎないのだ。よって、表面的には義が「行者のはからい」を意味するとしても、それは言葉遊びであって、実際に意味するところは違うと考えられる。

 

 親鸞の思想の中には、自力も選択もない。(歎異抄要約の第三条、第八条を参照。 ※別窓で開きます)
 人は自分の自由意思と努力で信心を身につけ、阿弥陀に帰依し、救われるのではない。それ故に、意志の弱い人も、努力のできない環境にある人も、力のない人も、等しく救われるのだと希望を持つことができる。
 この、自分は無力で何もできないという絶望を希望に転化するところが、念仏の教えの根本であろう。
 そのことを考えると、「無義」は自力作善を放棄して他力にすがること、「義とす」の義は本義(念仏の根本となる道理)の意で捉えてよいのではないかと思う。

 

<注8> 伊藤益『歎異抄論究』北樹出版,2003年,p175

<注9> 河田光夫『歎異抄を読む』明石書店,1998年,p356

 

 

2-5 何がどうして不可称・不可説・不可思議なのか


 私の見たところ、不可称・不可説・不可思議の主語については、大きく分けて3つの説がある。

 

①「念仏」説:多屋頼俊氏(類似説に「念仏の心」説:伊藤博之氏)
②「阿弥陀の慈悲」説:アルフレッド・ブルーム氏
③「義」説:佐藤正英氏

 

 ①の場合、念仏が不可称(言い表すことができない)・不可説(説き明かすことができない)・不可思議(人間の思考能力を超越している)であるとはどういうことだろうか。

 

 これは、当然のことながら、「南無阿弥陀仏と発音することができない」という意味ではない。また、「南無阿弥陀仏(阿弥陀に帰依します)という言葉の意味が分からない」という意味でもない。私が思うに、「どうして念仏を唱えただけで往生できるのか。どうして阿弥陀はそれほどまでに慈悲深く、悪人である我々を救ってくださるのか。どのような方法で阿弥陀は人間を往生させるのか」が、不可称・不可説・不可思議なのだろう。伊藤博之氏が主語を「念仏の"心"」としたのは、そのニュアンスを伝えるためだと思われる。


 ①をそのように解釈すると、これは②と同義となる。①と②の違いは、念仏と阿弥陀どちらから出発するかということだけだ。念仏が不可称・不可説・不可思議なのは、それを作った阿弥陀の力や慈悲の深さが不可称・不可説・不可思議であるため。阿弥陀の力と心が不可称・不可説・不可思議であるが故に、念仏もまた凡夫の理性を超越した概念となる。

 

 ③の佐藤氏によれば、「義」とは阿弥陀仏の誓願に関わる法義(教義)のことであるという。
 佐藤氏は、親鸞がしばしば「不可称、不可説、不可思議」という言葉を使用しているということを指摘した上で、次のように述べる。

 

「不可称、不可説、不可思議」とせられているのは、阿弥陀仏の誓願であり、名号<注10であり、あるいは阿弥陀仏において体現せられているはたらきであり、さらには<信>の在りようであったりもする。それらすべてをひっくるめて、阿弥陀仏の誓願に関わる法義の「不可称、不可説、不可思議」がいわれているのではないだろうか。 <注11>

 

 佐藤氏は、不可称・不可説・不可思議なのは念仏そのものではなく法義なのだと主張しているが、本質的には①・②と同様のことを言っているのではないだろうか。つまりは三者とも、阿弥陀という存在の超越性について言及しているのだ。

 

 自力で善行を選択することもできず、自力で真理に到達することもできない無力な人間にとって、阿弥陀の存在、心、働きが不可称・不可説・不可思議なものであることは自明なことである。
 それ故に、親鸞は門弟から「念仏以外の奥義を知っているのではないか」と問い詰められても「念仏以外に往生する術を知りません」と答えるしかなく、さらには「念仏は、まことに、浄土に生まるるたねにてや侍るらん、また、地獄におつべき業にてや侍るらん、総じてもつて存知せざるなり(念仏は本当に浄土に生まれる原因になるのでしょうか、それとも地獄に落ちる行いなのでしょうか、全くもって存じません)」(第二条)とまで言ってのける。妙な言い方かも知れないが、阿弥陀の約束を「鵜呑み」にして、「思考停止」しているのである。


 門弟たちが念仏だけで往生できるということを信じ切れないのは、どのようなメカニズムでそれが可能なのかが分からないためであろう。それに対して親鸞は、「阿弥陀の働きはどうあがいても理解できないものなので、知ろうとすることは諦めてください」と諭しているように見える。

 

<注10> 名号(みょうごう):仏・菩薩の名。これを聞いたり唱えたりすることに功徳があるとされる。特に、「阿弥陀仏」の4字、「南無阿弥陀仏」の6字をさす。(『大辞泉』より)

<注11>  佐藤正英『歎異抄論註』青土社,1992年,p654~655

 

 

【2’】改めて口語訳

 

「念仏においては、自力作善ができるという思い込みも、自分の知性で正しいことが分かるという思い込みも捨てて、阿弥陀にすがることを本義とします。阿弥陀の働きや慈悲深さ、そしてそこから生まれた念仏と往生の仕組みは、言い表すことも、解き明かすこともできない、凡愚である我々の思考能力を超越したものであります故に」と親鸞聖人はおっしゃった。

 

 

【4】参考文献

 

アルフレッド・ブルーム著、徳永道雄訳『現代思想と歎異抄』毎日新聞社,1987
伊藤博之『歎異抄 三帖和讃』新潮社,1981年
伊藤益『歎異抄論究』北樹出版,2003年
河田光夫『歎異抄を読む』明石書店,1998年
佐藤正英『歎異抄論註』青土社,1992年
多屋頼俊『歎異抄略註』法藏館,2008年
 

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