卒業論文 日本人の「食」の思想

第四章 現代日本人は「食」とどう向き合うか

第三節 罪悪感の正体

 今までの情報を整理すると、日本人が今まで生命の価値や殺生の是非について考えてきたこと、またこれから考え得ることは、次の通りである。

 

1.農耕政策としての酒肉断ちが仏教の影響を受けたことで生まれた「穢れ観」

2.あらゆる生命を対象とする日本仏教の「不殺生戒」

3.人間の高い共感能力による「殺される生命への同情」

4.動物殺しの方が植物殺しより大きい「残酷に感じられる度合い」

5.動物殺しでも植物殺しでも変わらない「残酷さの度合い」

6.アニミズムに由来する「人間も動物も植物も同じ命という認識」

7.如来蔵思想に由来する「殺生それ自体が残酷であるという意識」

8.人間、動物、植物を同じ次元に置く「殺生は自然の営みであり悪ではないという論理」

 

 このうち、1番の「穢れ観」はもはやほとんど機能していないと言っていい。2番の「不殺生戒」については、確かに社会通念として「生き物を殺すことは悪いことだ」という意識はあるが、日本人の7割以上が宗教への信仰を持たない現代においては、それが仏教の戒律を守ろうという意志に基づいているとは考えにくい。もし、動植物の殺生が罪悪である理由を聞かれて「悪いことだと決まっているから」と答える人がいたら、それは今まで殺生と向き合ってこなかったために、過去の殺生罪業観がそのまま先入観という形で残った結果であると考えられる。本当に現代日本人が殺生と向き合うなら、第二節で述べた「殺生は悪ではないという論理」の方が優勢になるだろう。

 

 4番の「残酷に感じられる度合い」は、苦痛、恐怖、自由の制限への同情を指し、3番の「殺される生命への同情」に統合される。

 5番の「残酷さの度合い」と、7番の「殺生それ自体が残酷であるという意識」における「残酷」は、同じものを指している。これは、現代においては仏教的な罪の重さのことではないが、本質的には昔と同じことを問題意識にしている。

 動物だろうが植物だろうが、苦痛を与えようが安楽死させようが、殺すということは日本人にとって「大切なもの」を壊してしまうということである。この「大切なもの」はかつて仏性として理解されていたが、仏教信仰が薄まった今でも「尊い命」として日本人の価値観の中に残っており、これを壊すことを「残酷」と呼んでいるようである。動植物の「未来を奪うこと」「可能性を潰すこと」を申し訳なく感じるところは、衆生に仏性が宿っていると信じられていた時代と共通している。

 しかし、食物連鎖の中ではお互いにその「大切なもの」を奪い合うことが自然の営みである。第二節で確認したように、「人間も動物も植物も同じ命という認識」を保ったまま弱肉強食を悪だと判定することは論理的に不可能なので、「殺生それ自体が残酷であるという意識」も人間の尺度による「同情」の一種として扱われなければならない。

 こうして、「残酷に感じられる度合い」と「残酷さの度合い」は結局どちらも「殺される生命への同情」に統合されるのだが、それぞれ何に対しての同情であるかが違う▼[76] ので、日本人の菜食主義批判を理解するためにはやはり両者の違いを認識しておく必要がある。

 

 4番5番7番は、すべて3番の「殺される生命への同情」に統合され、存続する。

 6番の「人間も動物も植物も同じ命という認識」は、日本人が最も納得して受け入れている生命観なので、「食」の思想の基盤に据えられるべきである。

 最後に、8番の「殺生は自然の営みであり悪ではないという論理」に関して、「かわいそうだと思うことをするのは人間の道理に反するのではないか」という問いに答えたい。

 

 日本では、ルールを破ったことに対する後ろめたさと、かわいそうなことをしたという憐れみが、一緒くたに「罪悪感」という言葉で表される。だが、「殺生は自然の営みであり悪ではないという論理」を考えるにあたっては、それらは区別されなければならない。

 例えば、同じ大学を受験していた友達が不合格で、自分だけ合格してしまったという時の悲しい気持ちを「罪悪感」と表現することがあるが、だからと言って受験で合格することを「罪悪」だと決めつけるのは無理がある。完全に「かわいそうだと思うことはしてはいけない」のなら、自分の合格によって他者を不幸にする入学試験や就職活動には参加できないし、好きでない人から愛の告白を受けても、断ったらかわいそうなのでOKを出すしかなくなってしまう。このような倫理は一般的に認められていない。つまり、「かわいそうだと思うことはしてはいけない」という道徳観には、「自分の幸福の追求を放棄しない範囲で」という但し書きがついているのである。

 憐れみを「罪悪感」と呼ぶために、動植物を食べることが罪悪であるかのように錯覚されることもある。しかし、動植物の命より自分の幸福を優先させることは、「かわいそうだと思うことはしてはいけない」という常識に照らし合わせて考えても非道徳であるとは判断できない▼[77] 。人間は決して罪深い存在ではなく、罪でもないことについて「かわいそうだ」と苦悩せざるを得ないというだけの、繊細な生き物なのだ。

 

 現代日本人の生命観を論理的に分析した結果、「人間も動物も植物も同じ命」という認識を軸に論理が展開され、弱肉強食は「善でも悪でもない自然の営み」であると意味づけられた。また、殺生が悪いことではなくても憐れみを感じてしまうという「殺される生命への同情」も浮き彫りとなった。

 このことは、罪悪感にとらわれず人生を楽しんでもいいのだという安心感を日本人にもたらすと同時に、命を奪われる動植物をかわいそうだと感じる気持ちは永遠になくならないという現実を突きつけている。私たちは、この憐れみとどのように付き合っていくことができるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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―― 【 目 次 】 ――

 

要約

 

   
第一章 屠畜を経験しなかった日本
  第一節 肉食禁止令の真意
  第二節 穢れ観の肥大化
 

第三節 文明開化と畜産業の開始

 

第二章 殺生と向き合う思想の欠如
  第一節 「かわいそう」との出会い
  第二節 西洋における屠畜の正当化
 

第三節 仏にもすがれない

 

第三章 殺生それ自体が残酷であるという意識
  第一節 日本と西洋の動物観の違い
  第二節 菜食主義に「偽善」を感じる日本人
  第三節 アニミズムと如来蔵思想
 

第四節 肉も野菜も食べ続ける

 

第四章 現代日本人は「食」とどう向き合うか
  第一節 無意識の殺生から自覚的な殺生へ
  第二節 人間、動物、植物を同じ次元に置く
 

第三節 罪悪感の正体  現在地

 

 
参考文献  
謝辞  
   
資料1 ネット上での菜食主義議論
資料2 質疑応答(口頭試問)
 
 

 

 

【脚注】  ▲[番号]をクリックすると元の場所に戻ります。

 

 

▲[76] 「残酷に感じられる度合い」は苦痛、恐怖、自由の制限に対しての同情。「残酷さの度合い」は命を奪われることそれ自体に対しての同情。

 

▲[77] もちろん、「仲間」である人類やペットを自分の利益のために殺傷することは認められていない。

 

 

 

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