※専門家でも何でもない、一介の大学生が授業で作成した論文です。
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2012年1月10日
執筆者:夢前黎
1.【問題設定】
絵本『ちびくろサンボ』の主人公サンボや、サンリオキャラクターの「サンボ・アンド・ハンナ」、かつて乳酸菌飲料カルピスの商標に使われていたカルピスを飲む黒人男性。これらは黒人の容姿を描くにあたってステレオタイプな表現(真っ黒な肌、分厚い唇、大きな目)を使っており、人種差別に当たるとして問題視された。
『ちびくろサンボ』については、物語や設定に差別意識が紛れ込んでいる可能性を論じることもできる。しかし、例えば今私が適当に描いた、物語も設定もない図1(右下)のような絵も、真っ黒な肌、分厚い唇、大きな目だという理由で、黒人差別だと非難されるだろう。カルピスの旧商標がそうだったように。
何故「黒い肌に分厚い唇」の人物を描くことそのものが問題視されるのだろうか。根本的な問題はどこにあるのだろうか。
本レポートでは、『ちびくろサンボ』、「サンボ・アンド・ハンナ」、カルピスの旧商標のどこが差別的だと捉えられたか、またその評価は妥当だったかを検証しつつ、何故「黒い肌に分厚い唇」の人物を描くことが黒人差別に当たると考えられているのかを考える。
ちゃんとした引用元が見つからなかったのでレポートには書けませんでしたが、ポケモンのルージュラなんかも問題になったそうですよ。あれは多分、当時のガングロ文化をモデルにしていると思うのですが。金髪だし女の子っぽいし。
2.【本論】
2-1 「黒い肌に分厚い唇」の人物の絵を描くことは差別か
大辞林によれば、差別とは「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い」<注1>を指す言葉である。
では、描き手が黒人に対して不利益・不平等な扱いをするつもりがない場合、「黒い肌に分厚い唇」の人物の絵を描くことは差別となるのだろうか。
これについては、信州大学教授(1997年当時。現在は東京農工大学大学院教授)の守一雄氏の論文「『ちびくろ・さんぼ』の差別性をめぐって」の「1.何が「差別表現」であるかについての基準」の項目を参考にする。
守氏の基準では、話者、聴者、第三者の視点から差別的か否かを判断していたが、これでは聴者が差別される場合と第三者が差別される場合などでも分けなければならず、必要以上に複雑であると感じたため、私は「表現者(表現を使った人物)」、「被表現者(表現者に表現された人物)」、「第三者(表現者でも被表現者でもない人物)」の視点から守氏の基準をまとめなおした。
以下のうちどれかに当てはまれば、差別表現だと判断される。
1.表現者が差別的な意図を持って使った表現。
2.被表現者がその表現を聞いた時、表現者が自分を差別していると感じる表現。
3.例え表現者と被表現者が差別だと思わなくても、第三者が客観的に見た時に差別的だと感じる表現。
『ちびくろサンボ』は、1については作者である故・ヘレン・バナーマンのみぞ知るところだが、黒人を差別している本だと批判する人が現れた時点で3に当てはまり、差別表現があったということになる。「サンボ・アンド・ハンナ」、カルピスの旧商標、私の描いた図1についても、誰かが差別だと言えば差別なのである。
では、その「誰か」は何故これらを差別だと感じるのだろうか。「誰か」がこれらを差別だと判断することに、妥当性はあるのだろうか。
<注1> さべつ【差別】の意味とは - Yahoo!辞書 (最終閲覧日:2011/11/30)
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E5%B7%AE%E5%88%A5&stype=1&dtype=0&dname=0ss
2-2 「黒い肌に分厚い唇」のキャラクターに付随する設定が差別的だと考えられる場合
守氏は、東郷茂彦氏の意見を踏まえつつ、『ちびくろサンボ』が黒人差別だと批判される大きな理由は次の3つであるとした。
(1)西欧社会において歴史的に黒人への蔑称である「サンボ」が使われている。
(2)イラストにステレオタイプ化された黒人像が用いられている。
(3)ストーリーが黒人を野蛮人として描いている。<注2>
(2)が何故問題となるのかについては後の項目で検証するとして、本項目では(1)と(3)が妥当な指摘なのかを考えたい。つまり、「誰かが差別だと言えば差別」だが、(1)と(3)は「差別だ」と言うための根拠になり得るのだろうか、ということだ。根拠のない批判は無効であるため、根拠なしに「差別だ」という人がいても論理的には「誰かが差別だと言った」ことにはならず、作品に差別性があるとは言えない。
(1)について、京都産業大学文化学部教授の灘本昌久氏は次のように語る。
まずサンボが差別語であるということが成り立つかどうか。日本で「サンボ」という言葉が黒人に対する差別語として使われているなら分かるんだけれども、それはアメリカのまったくローカルな話です。アメリカの南部で黒人を指して悪く言う言葉として「サンボ」というのがあったのは事実ですが、イギリスで出た『ちびくろサンボ』の「サンボ」というのはそれとは別系統の言葉で、途中でそれが混同されていったことは絵本の責任ではない。 <注3>
また、灘本氏は、サンボという言葉の持つ様々な意味について次のように考えている。長くなってしまうが引用する。
サンボの語源について、従来どういう批判がされていたかというと、スペイン語のZambo で、O脚あるいは猿という意味である。西アフリカの民族の名前である。あるいは、セネガルのフラニ語の「おじさん」という意味であるとか等々の意味。ハウサ語で「二番目の息子」。アメリカでスペイン人が奴隷をさして「サンボ」という。あるいはアメリカ南部で白人の血が1/4、黒人の血が3/4の黒人をさしてサンボという。あるいは、ミンストレル・ショ-のエンドマンをサンボという等々の説がありますが、それらの中でサンボという言葉が差別語だという論拠になっていたのが、最初のスペイン語のZambo 、O脚あるいは猿という意味であるということです。ヘレン・バナーマンは、この猿という意味からとったサンボという名称をわざわざつけよったんやという批判をされてきたんです。 名前の問題については、最近、径書房から出されました『ちびくろサンボ速報』の中で、国連関係機関に勤めてインドで長く仕事をしておられた方が、インドのチベット方面のシェルパ族では、「サンボ」というのは、日本で言うと「太郎」みたいな非常にありふれた名前で、「マンボ」「ジャンボ」もよくある名前であると書かれています。サンボが「優秀な」、マンボが「たくさんの」、ジャンボが「大世界」という意味であるそうです。ヘレン・バナーマンさんは、たぶんここから名前とったんだろうという可能性も出てきています。 <注4>
私の考えでは、「サンボ」という単純な音節の組み合わせは、世界各地で全く違う意味の言葉として使用されているのではないだろうか。作者のヘレン・バナーマンがどのような意図で主人公をサンボと名づけたかは最早確かめようがない。
しかし、作者に責任がないとしても、アメリカ南部で「サンボ」が黒人の蔑称として使われていたのなら、その言語圏において当たり障りのない名前に変えるなどの措置が必要だと考える。例えば海外の絵本が日本に輸入された時、主人公の名前が「バカ」だの「アホ」だのだったら、いくら元の言語では「素晴らしい」を意味する言葉なのだと説明されても、日本では名前を変える措置が取られるはずだ。「サンボ」についても、作者にとって差別語だったかどうかより、読者にとって差別語だったかの方が重要である。
(3)については、灘本氏の「ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ」からいくつか例を取り上げよう。NAACP(全国黒人向上協会)は、1945年に『ちびくろサンボ』を批判し始めた時、「トラが出てくるようなジャングルに黒人が裸同然の風俗で生活していると思われるのが嫌だ」 <注5>と主張した。灘本氏はこの現象について次のように分析する。
「『ちびくろサンボ』みたいな本が出回ると黒人は未開の人種であると思われて嫌だ」という言い方の中には、同時に、アメリカの黒人によるアフリカの黒人に対するかなり露骨な差別が含まれている。 <注6>
これだけ読むと、問題の根幹は『ちびくろサンボ』が黒人全体を差別していることではなく、アメリカの黒人がアフリカの黒人を差別していることであるように見えるが、そうではない。灘本氏は次のようにも語っている。
アメリカの黒人は近代的な社会の中で生活していて、アメリカ社会の中に入っていこうとしたら、白人と同等の能力もあるし、同じような生活スタイルだということをアピールしなければならない。それを、「お前らはアフリカの土人だ」という言葉で排除されたくない、というのはわかる。 <注7>
つまり、問題の根幹は、機械に頼らず自然の中で暮らしている人々を「劣等」と捉え、自分たちと対等の人間として扱おうとしない先進国の高慢さなのである。先進国と言う言葉にも同様の高慢さが見られる。というのは、自分たちの在り方が人類の進むべき道であるという思い込みが、「先進」という言い方を生み出していると考えられるからである。
この他、「落ちたバタ-を食べるというのは、黒人を何だと思っているのか、そんな非衛生的なことはしない。あるいは、サンボの服装を見て黒人は原色を好むという偏見を表している。黒人が色彩感覚がないと思っているのかという批判。お母さんが二七枚、お父さんが五五枚、ちびくろサンボは一六九枚食べた、というのはけしからん。黒人が異常な食欲の持ち主と思っている証拠やという批判」 <注8>
があった。しかし、『ちびくろサンボ』が子供向けの絵本であることを考えると、これらは主人公が黒人だからこのように描いたのではなく、物語に非現実性を持たせて子供を喜ばせるために描いたのだと推察される。私は、これらの批判は言いがかりにすぎないと感じる。
以上のことを踏まえると、『ちびくろサンボ』の内容自体には差別性はなく、作品を読んで「差別だ」と感じる価値観こそが差別的だったのだと考えられる。差別をなくすために本当にしなければならなかったことは、『ちびくろサンボ』を糾弾することではなく、黒人や機械化されていない社会を「劣等」だと捉える価値観を撤廃していくことだったのではないだろうか。当然、もしも作中に「黒人は能力が低い、容姿が醜い」などの描写があったなら、作品そのものに差別性があったということになるのだが、私は「自然の中で暮らしている」ことを「能力が低い」ことに結びつけて考えてしまう価値観こそが問題であると思う。
だが、これだけでは、物語も設定もない図1のような絵が問題視されることの説明としては不足している。次は、「サンボ・アンド・ハンナ」について考える。
<注2> 守一雄(1994年)「『ちびくろサンボ』と『チビクロさんぽ』-差別表現をもつ絵本とその改話とのおもしろさの比較-」『季刊窓22』窓社
※以下のURLで公開されている。
http://www.avis.ne.jp/~uriuri/kaz/profile/papers/Sambo-Mado.pdf
<注3> 灘本昌久(2000年)「ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ」『くらしと教育をつなぐWe 86号』femix
※以下のURLで公開されている。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/200010b.htm
<注4> 灘本昌久(1991年)「差別って、いったい何だろう」『こぺる165号』京都部落史研究所
※以下のURLで公開されている。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/199109.htm
<注5> 灘本昌久(2000年)「ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ」『くらしと教育をつなぐWe 86号』femix
※以下のURLで公開されている。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/200010b.htm
<注6> 同上
<注7> 同上
<注8> 灘本昌久(1991年)「差別って、いったい何だろう」『こぺる165号』京都部落史研究所
※以下のURLで公開されている。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/199109.htm
2-3 「黒い肌に分厚い唇」のキャラクターを可愛いと思うことに含まれる差別性
「サンボ・アンド・ハンナ」は、黒人の容姿を否定するどころか、むしろ「可愛い」と感じたが故に作られたキャラクターだ。黒人の容姿を否定していたなら、黒人のキャラクターを売り出そうとは思わないだろう。
しかし、「可愛い」という気持ちには、「対象を自分より下位の存在として見る」という性質がある。大辞泉によると、「可愛い」には以下の意味合いが含まれる。
・小さいもの、弱いものなどに心引かれる気持ちをいだくさま。
・いかにも幼く、邪気のないようすで、人の心をひきつけるさま。
・無邪気で、憎めない。すれてなく、子供っぽい。 <注9>
子供と大人は対等ではない。子供は、弱く未熟な下位の存在であるが故に、大人の庇護を受けるのだ。
ヨーク大学助教授のセオドア・グーセン氏は、日本人が持つ黒人の類型的イメージの一つに「かなり子供っぽい」というものがあると言う。 <注10>おそらく、「先進国と後進国」という関係を、大人と子供、教育者と被教育者の関係に当てはめて認識した結果だろう。
黒人を子供同様に下位の存在と見なしていたが故に、「黒人は可愛い」というイメージを持って「サンボ・アンド・ハンナ」を生み出した可能性は否定できない。
悪いイメージではなく、むしろ良いイメージを持って描かれた「黒い肌に分厚い唇」のキャラクターであっても、そこに差別意識が潜んでいる可能性はあるということが確認された。
<注9> かわい・い【可愛い】の意味とは - Yahoo!辞書 (最終閲覧日:2011/11/30)
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E5%8F%AF%E6%84%9B%E3%81%84&stype=1&dtype=0
<注10> セオドア・グーセン(1990)「檻のなかの野獣――現代日本文学にあらわれた黒人たち――」『内なる壁――外国人の日本人像・日本人の外国人像』ティービーエス・ブリタニカp538
2-4 黒人の身体的特徴を商品のデザインに取り入れるということ
これは私個人の考えだが、「サンボ・アンド・ハンナ」やカルピスの旧商標のように特定の人種の身体的特徴をデザインとした商品を観賞用に売り出すことは、その人種自体を商品として利用しているのと本質的には変わらないのかも知れない。
私自身は、日本人の身体的特徴をデザインとした人形が海外で売れていても気にしないと思うが、奴隷として売買されていた過去を持つ黒人は、そうした問題に敏感であるはずだ。
2-3と本項目によって、物語や設定のない「黒い肌に分厚い唇」のキャラクターであっても、使用の目的によっては、黒人を商品や愛玩動物のように扱っているように感じられる可能性があることが明らかになった。
では、私の描いた図1のように使用の目的すらない絵は、どのような理由で差別だと言われるのだろうか。
2-5 黒人の容姿を「面白い」「滑稽だ」と評価している可能性
本レポートでは、資料不足のため黒人の容姿に対する日本人及び外国人の評価を検証することはできないが、『ちびくろサンボ』については興味深い実験があったので紹介する。
1994年、守氏は、4~5歳の幼児が岩波書店版の『ちびくろ・さんぼ』(挿絵はフランク・ドビアスによるもの。サンボは黒い肌、赤く分厚い唇、大きく丸い目を持っている)と、主人公を「ちびくろ」という名の黒い犬に描き変えた『チビクロさんぽ』、どちらをより面白いと評価するかを、実験で明らかにした。 <注11>
その結果、両者の人気に差はなく、また、どこが面白かったかについても差異が出なかった。守氏は「こうした実験結果から、少なくとも子どもたちは、『ちびくろサンボ』のおもしろさを「黒人に対する差別心」や「『サンボ』という言葉そのもの」から得ているわけではない」と結論付けたが、私はもう一つ重要なことが証明されたと考えている。それは、子供たちが「黒い目、分厚い唇、大きな目」というサンボの容姿に面白味や滑稽さを感じて絵本を面白がっていたわけではないということだ。
どの国にも、異民族の容姿を嘲笑する人はいるだろう。しかし、少なくとも『ちびくろサンボ』を読む幼児たちは、黒人の容姿を笑っているのではなく、純粋に物語の面白さを笑っているのである。
<注11> 守一雄(1994年)「『ちびくろサンボ』と『チビクロさんぽ』-差別表現をもつ絵本とその改話とのおもしろさの比較-」『季刊窓22』窓社
※以下のURLで公開されている。
http://www.avis.ne.jp/~uriuri/kaz/profile/papers/Sambo-Mado.pdf
2-6 ステレオタイプは存在するべきでないという考え方について
差別をなくす会を支持する黒人の一人は、「ちびくろサンボ」について、「あれは原作者が思い描く黒人。私は私として描いてほしい」と望んだという。<注12>
私はこの発言を奇妙なものだと感じた。この人の肖像画が、個性を無視した黒人のステレオタイプなイメージで描かれたのなら、「私として描いてほしい」という意見ももっともだ。しかし、『ちびくろサンボ』はこの人の個性を世界中の人に紹介するための作品ではない。「私として描いてほしい」というのは、こう言っては失礼だが我儘ではないだろうか。
この発言を、「黒人全員が黒い肌、分厚い唇、大きな目を持っているわけではないから、そのような描き方をしないでほしい」という意味に解釈してみると、さらに不可解になる。「黒人全員がその姿ではないのだから、そのような描き方をしないでほしい」と言う場合には、どのような姿で黒人を描いても「全員がそうではないから駄目だ」と言うことになる。それは「黒人を描くな」と言っていることと同じだ。
「そんな人は滅多にいないから、それをステレオタイプとするのは間違っている」と言うのなら分かる。しかし、「黒い肌、分厚い唇、大きな目」の黒人は、それをステレオタイプとすることが不適当であるほどに数少ないだろうか。白人の血が混じっていない黒人の肌は事実として黒く、テレビなどを見ていると他の人種と比べて唇が目立つと私は感じる。「大きい目」は、白目の部分が黒い肌に映えることから生まれたステレオタイプだろう。無根拠に、偏見や悪意のみから「黒い肌、分厚い唇、大きな目」というステレオタイプが生まれたわけではない。
人物の絵を描く時に、その人物が特定のグループに属していると分かるようにするためには、ステレオタイプな表現を使わざるを得ない。手塚プロダクション及び講談社は、漫画におけるステレオタイプの表現について、それを不快に感じる人への配慮が必要だとしながらも、「しかしながら人々の特徴を誇張してパロディー化するということは、漫画のユーモアの最も重要な手法のひとつです」<注13>と語っている。ステレオタイプな人物像を描くことは、必ずしも差別ではないはずだ。
日本のアニメなどで西洋人キャラクターが「金髪に青い目」というステレオタイプで描かれていることに関しては、あまり「差別」だと批判されることがない。一方で、「黒い肌に分厚い唇」のステレオタイプばかりが差別だと言われる。「ステレオタイプな描き方はよくない」と言って「黒い肌に分厚い唇」のキャラクターを批判する人は、本当にステレオタイプが存在すること自体を批判しているのだろうか。
<注12> 『西日本新聞』2005年11月07日
朝刊「差別論争に一石を投じ 絶版に揺れた童話」
※以下のURLで公開されている。
http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo6/01.html
<注13> 灘本昌久(1991年)「差別って、いったい何だろう」『こぺる165号』京都部落史研究所
※以下のURLで公開されている。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/199109.htm
2-7 「黒人であること自体が恥ずかしい」という先入観があるが故に、黒人を黒人らしく描こうとすることを侮辱と捉えている可能性
灘本氏によると、1960年代半ばまでブラック・ピープルという呼称が侮蔑語だと捉えられていたのは、白人からの差別によって「黒人であること自体が恥ずかしい」という意識が出来上がってしまったからだという。<注14>
「黒人であること自体が恥ずかしい」場合、黒人は黒人らしく描かれることを嫌う。2-6において、「ステレオタイプな黒人を描くな」と言うことと「黒人を描くな」と言うことは同じだと書いたが、彼らは本当に黒人を描いてほしくなかったのかも知れない。「黒人であること自体が恥ずかしい」と思っている人にとっては、黒人の身体的特徴のすべてが醜く感じられたのだろう。
私は灘本氏の次の意見に全面的に賛成する。
唇が分厚くて、色が真っ黒で、目が大きいというのがけしからんのではなくて、それにマイナスの価値づけがされているということが、問題だと思います。かつ、黒人がそういうものをマイナスとして受け入れていることも、克服の対象とされなければなりません。ブラック・ピープルという呼ばれ方をされるのがいやな間は、黒人はどういうふうに描かれても、やっぱり黒人にとって、いやな描かれ方だろうと思います。 <注15>
「黒人であること自体が恥ずかしい」という意識を持った人にとっては、設定や使用用途があろうがなかろうが、図1のような「黒い肌に分厚い唇」を持った人物の絵は、黒人の「醜さ」を表現した絵であるように感じられるのだろう。
<注14> 灘本昌久(1991年)「差別って、いったい何だろう」『こぺる165号』京都部落史研究所
※以下のURLで公開されている。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/199109.htm
<注15> 同上
3.【結論】
「黒い肌、分厚い唇」のキャラクターを描くことが黒人差別だと非難される理由は様々である。そのキャラクターに関する物語や設定に差別意識が紛れ込んでいる場合、その姿を「可愛い」「面白い」などと言って商品にすることで、間接的に黒人自身を商品や愛玩動物のように見ていると判断される場合などがある。しかし、最も根本的な問題は、「黒人であること自体が恥ずかしい」という意識を持つ人がいて、黒人を黒人らしく描こうとすることを侮辱と捉えているということである。この意識が取り除かれない限り、「黒い肌、分厚い唇」のキャラクターは、描き手の意図とは関係なく「差別だ」と言われ続けるだろう。
設定も使用用途もない「黒い肌に分厚い唇」の人物の絵を見て「差別だ」という人は、意識的であれ無意識的であれ、黒い肌や分厚い唇を「劣っている」「醜い」と判断していることになる。もし、黒い肌や分厚い唇が美しいものとして社会に受け入れられていたら、「黒い肌に分厚い唇」の人物の絵を見てもそれを良いものだと判断するはずだ。このことからも、「黒い肌に分厚い唇」の絵を描くこと自体が差別的なのではなく、それを見る人の心の中に差別的な価値観があるということが分かる。
白人を初めとする先進国の人間が黒人に対していまだに優越感や差別意識を持っていることも問題だが、黒人が自分の人種に対して劣等感を抱いていることの方が深刻な問題だと思う。自分自身の存在を恥ずかしいと思いながら生きていくのは、辛く悲しいことだ。一刻でも早く「黒人であること自体が恥ずかしい」という先入観が人々から取り払われ、「黒い肌、分厚い唇」のキャラクターが差別だとは捉えられないようになることを望む。
4.【参考文献一覧】
守 一雄のホームページ (最終閲覧日:2011/11/28)
http://www.avis.ne.jp/~uriuri/kaz/
守一雄(1997年)「『ちびくろ・さんぼ』の差別性をめぐって」『信州大学教育学部紀要 第92号』信州大学
※以下のURLで公開されている。
http://www.tuat.ac.jp/~sarmac/Sambo.pdf
灘本昌久のホーム・ページ (最終閲覧日:2011/11/28) 京都産業大学文化学部教授
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/
『朝日新聞』1999年6月10日夕刊「なぜ『ちびくろサンボ』か―読まれることこそ重要」(筆・灘本昌久)
※以下のURLで公開されている。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/19990610.htm