僕の世界観を、哲学的・論理的に説明しようと試みた文章たち。
哲学のレポートでも、主観的なものはここに分類しました。
「この世には善も悪もなく、すべては無意味で、消えようが死のうがどうでもいいのと同時に、何でも、誰でも、存在していていい」という世界観。
愛されるべきものと否定されるべきものの区別が存在する「価値ある世界」と、不幸や不快を含む全世界が分け隔てなく肯定される「無価値な世界」。あなたはどちらが好きですか?
無神論者の立場から、世界が無価値であることを証明します。
そして、それがどんなに幸せなことかを説明しています。
決定論と自由意志の問題について。
決定論を信じていても絶望したり無気力になったりしない考え方を紹介します。
例え世界が決定論的に進んでいて、努力も成果も個人の功績でないとしても、人間は誰の功績でもないもの(宝石など)に価値を見出し称賛することのできる生き物なので心配無用です!
試験管の中で起こる化学反応と世界の出来事に何の差があるのか。化学反応の連鎖から逃れるという自由がない我々は、自分は自由だ/幸せだと思い込んでいる奴隷と同じではないでしょうか。
この世が全知全能で完璧な善である神の創造物だと信じるなら、徹底して、この世には悪はないと言い切ってほしいです。それができないのは、信仰心が足りないからでは……と疑ってしまいます。
シリーズ物。大学の期末試験(授業の感想を書く)に書いたこと。A評価……だったけど関係ないよね。
世界の無意味さが原子をありのままにしておくこと。僕はそれを、「愛」と呼んでいます。
宗明理学と僕 2 世界中のすべてが「私」を構成する要素である
A評価……だったけどこれもただの感想文なので関係ない。
因縁生起と諸行無常の思想から、あらゆる存在と運動が「私」を構成していることを説明します。
A評価(ry 儒教では万物は世界から生まれた兄弟であるということを根拠に調和的な変化生成を善としますが、皆の願いが一致しない以上、それは説得力を持たないのではないかという反駁です。
A評(ry 決定論がいまだ論破されていないこと、また、「確率」や「可能性」というのは厳密にはあり得ず、一つの原因からは一つの結果しか生まれないと考えざるを得ないことを説明します。
宗明理学と僕 5 行為の正誤は「相互制約」の観点から説明すると説得力がある
A(ry 「相互制約」の考え方は、人を説得したい時に参考になると思います。
しかし、破滅願望の持ち主には通用しないというのが宗明理学の難点です。
A(ry 「それをせずにはいられない」という不自由な決定こそが、人の理であり、志であり、能動性なのだと思います。