2012年9月7日
対話形式の思想の授業の、1学期を振り返っての感想レポートの一部。
私は小学校で理科を学び始めた頃から、特に信念というわけではなく、自然に決定論的世界観を持っていました。
「世界が始まってから終わるまでの出来事というのは、試験管の中で起こっている化学反応の連鎖の、規模のでかいバージョンなんだな」と思っていました。これは突き詰めていくと完全な根拠のない仮説(ビックバン等)に依存した考えなので、無根拠な直感、迷信と思われてもいいと思います。別にこの世界観に正当性があるとは思っていませんし、皆を説得したいとも思っていないので、私の主張が論理的であるかどうかは私としてはどうでもよかったのです。
では何故この話をしたかと言うと、私がたびたび「思い込みや洗脳であっても、その人が『自分は自由だ/不自由ではあるが幸せだ』と思っているならそれでいいと思う」と言っていたことに疑問を持っている人が少なくなかったので、その理由を説明したかったからです。
私にとっては、他人や自分に束縛されず幸せに生きている人も、奴隷として自由を奪われながらも『自分は自由だ/不自由ではあるが幸せだ』と洗脳されている人も、どちらも「すべての行為は世界という試験管の中の化学反応の一環」「今の状態に満足している」ということから同じです。
いわゆる自由な人というのは、私からすれば「本当は不自由(試験管の外に出る、化学反応の連鎖から逃れるという自由がない)なのに『自分は自由だ/不自由ではあるが幸せだ』と思い込んでいる人」であり、幸福な奴隷と同じです。
このような世界観から、「人から見て不自由・不幸でも、本人が幸せだと思い込めてるならいいじゃん?」という感覚が生まれました。
むしろ何故他の人はそれが嫌なのか分からなかったので、いろいろ質問したかったのです。
試験管というと、人間より上位の知的存在が我々を試している(試験している)、というニュアンスに感じてしまったかも知れませんが、そういう意味ではありません。世界が化学反応の連鎖でできているということを表現したかったのです。
イメージとしては、試験管に硫黄と鉄粉を混ぜ合わせて入れて、バーナーであぶったところから赤く発光して硫化鉄になるのを観察する、あの実験です。中学校でやる……。
そうそう、これこれ。
実験1 鉄と硫黄の化合(硫化)/2年理科『化学』/takaの授業記録2003
最初にバーナーであぶった部分が赤くなるのが世界(時間)の始まり、そこからどんどん熱が広がって化学反応が連鎖していき、最後の化学反応が終わったところが世界(時間)の終わり。
そんなイメージです。結構綺麗でしょう?