宗明理学と僕 2
因縁生起と諸行無常の話を聞いて、自分が小学生の時に書いた詩(のようなもの)を思い出しました。気になって昔のノートを見てみたら、要約するとこんなことが書かれていました。
「世界に何の影響も与えない命などない。生まれた瞬間命の総数が変わる。泣いて呼吸をした瞬間、空気が動き、酸素の量が変わる。一瞬だって世界が変わらないことはない。この瞬間はもう二度とない。そして、自分の命もこの貴重な一瞬を作っている」
私は昔から、「宇宙の果てで原子の粒が動いたということも、私を構成する要素の一つである」と思っていました。つまり、他人の幸せや不幸も私の一部であると思っているということです。
仏教は本来、因縁生起や諸行無常を根拠に「何に対しても心を動かす必要はないから、悩み苦しむ必要もない」と説く思想ですが、宗明理学は逆に「この世のすべてが自分自身だと思って、すべてに心を動かせ」と説きます。よって、私の考えは仏教よりは宗明理学に近いのだと思います。
しかし、××の授業のテスト(宗明理学と僕1のこと)にも書いた通り、私には善悪の価値観がないので、「他者との関係性の中での自分の役割を知り、持てる能力を最大限発揮して、『天下太平』及び『万物一体の仁』を目指すことが善である」という前提に基づく宗明理学の教えには、完全に同意することはできません。
私が人の幸せを願うのは、私が善人だからではなく、ただ単に私を構成する要素の中に不幸があるのが嫌だからです。もし自分を構成する要素の中に不幸があってもいいと思っていたら、人を幸せにしたいとは思っていなかったでしょう。また、もし何らかの出来事によって「私は人の不幸によって構成される存在でありたい」と思うようになったとしたら、その欲求を満たすために、世界中の人を不幸にしようとすると思います。
とは言え、人を幸せにしようとすることが一般的に善と呼ばれているのには、それなりの理由があると思います。それは、多くの人が「幸福によって構成されること」を望む性質を持っているということです。自分の一部であるように感じている範囲の世界に住む人々(自分自身や友人)には幸せでいてほしいと願う点で、全員ではないけれども多くの人が一致して、多数決的にそれが善と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
この推論が正しければ、宗明理学の理想は、幸福によって構成されることを望む多数派には論理的に納得してもらえるものです。つまり、「世界中のすべてがあなたを構成しているのだから、世界中のすべての人を幸せにしなければ、あなたは幸せによって構成されているとは言えないのですよ」という論理が成り立ちます。
しかしこれは、不幸によって構成されることを望む人や、すべてにおいて無関心な人には通用しません。彼らはただ少数派なだけであり、私の考えでは、不幸を望むことや無関心が悪であるということの根拠はないからです。
もし、そういう人にも「万物一体の仁」を目指してほしいのなら、宗明理学は他の説明の仕方を考えなければならないのではないかと思いました。
ここまでいろいろ書きましたが、私自身は「幸福によって構成されることを望む多数派」なので、儒教および宗明理学がどのように天下太平を目指したのかには興味があります。
そのため、『大学』篇の八條目の「致知」と「格物」の部分が失われていることに、大きなショックを受けました。
不幸を望むことや無関心は、八條目の「誠意」の概念を用いて考えると、「そのような精神状態になってしまったのは、精神作用の発端が間違っていたからだ」ということになるのでしょうか。精神作用の発端に歪みがなければ、不幸を望んだり無関心になったりはしないはずだ、と。
原子論者の私には、「正心」や「誠意」というのは根拠のない善悪の決め付けから生まれた概念のように見えるのですが、もしかしたら「致知」と「格物」によってきちんとした説明がなされていたのかも知れないと思うと、その点でも非常に残念に思います。
僕は、僕が小指を少し動かすだけで宇宙の果てにまで影響が及ぶと、本気で思っているのですよ。