2012月4月17日

大学の期末試験で書いたこと。

お題が「授業を受けての感想」だったので敬体です。

決定論について +α」を先に読むことをおすすめします。 

宗明理学と僕 6(最終回)

決定論は人の志を否定しない

 

【決定論】

 
すべてのものに原因があると考える宗明理学では、自分の存在が万物から根拠づけられているのと同時に、自分の存在や行為もすべての事象の原因となって世界を支えていると考えます。

宗明理学者は自分は決定論を否定する立場(※)にあると考えているそうですが、前回の試験にも書いたように、私は「ある程度までは限定できるが(傾向性はあるが)それより細かい未来はランダム」という確率論はあり得ないと思っており、また、決定論でなければ儒教が重視している「志」に意味がなくなってしまうのではないかと思います。

※補足:世界の動きに「傾向」はあるものの、未来は完全には確定していないという考え方。確率論に近い。


そもそも確率という概念は、原因について完全な情報があれば唯一の結果を導き出せるという考え方を指すのではないでしょうか。原因と結果が一対一という法則を前提としているからこそ、可能性を限定できるのですから。

一瞬前の状態が次の一瞬を決定すると考えるか、一つの状態から無限の結果が生まれ得ると考えるか、どちらかです。

そして、もし後者のように未来がランダムに決まるなら、何事にも根拠はなく、人の志も努力も未来を決定することに関して何の力も持たないということになります。それは宗明理学の教理とは反する考え方です。


「一瞬」という言い方には語弊があるかも知れません。

この言葉を使うと、きっと先生は「時空は個々に分断できるものではないから瞬間を前提としている時点で間違っている」とおっしゃると思うので、補足しておきます。(時空間に最小単位を設けなければ、ゼノンのパラドクスに答えることができないと思うのですが、それは置いておきます)

決定論は、個と個を切り離して互いに与え合う影響を無視する考え方ではなく、むしろこの世のすべてのものが互いに与え合うどんなに小さな影響さえも見逃さずに考慮すればこその考え方であるはずです。

時空は分割できないと考えていたとしても、一が全に、全が一に影響を与えるという思想のもとでは、決定論にならざるを得ないのではないでしょうか。


決定論という言葉を、「自分の意思とは関係なく決められた未来を押しつけられるもの」「どうあがいても結果は同じ」という意味で捉えると、確かに宗明理学とは相容れないと思いますし、私の考えとも合いません。

私の考える決定論とは、「能動的に未来を切り開いていくということが決まっている」というものなのです。

他の動物よりも意志や自覚の能力が高い人間は、自分の理想を実現させる力にも長けています。

私は、人間がそのような力を持って生まれたことも、これからどのような信念を持って努力していくかも、気と理の法則的な流動の中で決まっている通りに発生する出来事だと思っていますが、それが人の志を否定することだとは思いません。


私は、ひよこを見たら愛さずにはいられません。

私がひよこを愛するということは決定していて、ひよこを愛さないでいる自由はありません。

しかし、もし私に「ひよこを愛さずにいることもできる」という自由があったら、それはもはや私ではない別の人なのです。

「それをせずにはいられない」という不自由な決定こそが、人の理であり、志であり、能動性なのだと思います。


志は、世界が始まってから今までのすべての存在が相互連関して生まれたものです。

すべての志は世界(全体)の意志であり、決定論は世界が自らの志を能動的に遂げ続けているということの表れである、と考えれば、宗明理学の考えと対立することはないと思います。


試験のたびに決定論の話をしている気がしますが、それは宗明理学を否定したいからではなく、宗明理学をより整合性の高い思想として取り入れるためにはこう考えた方がいいと信じての行動なのです。

実は、主観的には、宗明理学においてこの話題は大して重要ではないと思っています。

宗明理学の核心は、万物が影響し合あっていて誰もが誰もと切り離せない存在であること、それ故に他者も自分の一部であるということ、本当に幸せになりたければ自分のことだけでなく万物の生成化育について考えなければならないということ、です。

そこでは未来がすでに決まっているかどうかなど大した問題ではありません。

占い師に「あなたは人を救えません」と言われたとしても、苦しんでいる人を救いたいという気持ちは変わらず、やってみるだけやってみずにはいられないはずです。また、その気持ちを拡充することが儒教の実践の根幹です。

だから、決定論か否かなど瑣末な問題だと思います。
私はただ、今の先生の説明の仕方では宗明理学を人に広めようとしても決定論を引き合いに出されて反論されるだろうと思い、対案を出しているに過ぎません。
決定論だとしても理気の働きは非常に精緻なので、どんなに技術が発展してもコンピュータで完全な予言をすることはできないと思います。だから体感的には未来は自分で作っていくものと捉えていいと思います。それで十分ではないでしょうか。

 

 

 

【秩序と志】

 

「ありのままの世界がすでに理の秩序に基づいた気であるなら、人間が何かを改善する余地などないのではないか?
いや、人間が何かをしたいと思う志もまた、理であり秩序の一部なのである」


この考えには同意します。
私は、宗明理学は決定論でなければ矛盾が起きる(もちろん宗明理学者自身は自分たちが決定論者だとは思っていないということは分かっています)と思っていますが、私の考える「筋の通った宗明理学の主張の仕方」は次の通りです。

 

「私は~が理想だと思います。賛同してくれる人は協力してください。
今私が話しているということも、今人々が苦しんでいるということも、すべてバランスの取れた調和の状態です。
未来がどうなるかも、理の秩序に従って決まっているでしょう。
しかし私は、それが私の理想と合致することを願います。皆さんが私に賛同してくれるということが、また、私たちの努力が実り理想が実現するということが、秩序の中に含まれていることを願っています」

 

これは、この人が話をしようがしまいが同じ、という意味ではありません。
この人がこのように皆に呼びかけることも、欠けては調和が保てない必要な動きなのだと考えれば、人の志と決定論的な秩序は相反しないと思います。


決定論は人の志を否定しない。それが私の考えです。
 

 

何故ひよこが出てきたのかというと、先生がひよこを引き合いに出して「仁」を説明したからです。

ひよこ可愛い。

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