2011月12月24日
大学の期末試験で書いたこと。
お題が「授業を受けての感想」だったので敬体です。
宗明理学と僕 4
【決定論について】
先生は、物質・エネルギー・時空間はどこまでも半分ずつに切っていけるので、区切りの可能な「最小単位」はなく、将来を計算的に予測することはできないということを根拠に決定論を否定されていましたが、「世界はパラパラ漫画のようなもの(デジタルに一瞬一瞬が切り替わっている。これは私の解釈ですが、時空間には最小単位があり、A地点からB地点までが空間の最小単位だとすると、AからBへの移動は瞬間移動で、Bに到着してから最小単位分の時間が立つまで世界は静止している)」という説もあるそうです。また、有の瞬間と有の瞬間の間に無の瞬間が挟まっており、世界は点滅していると考えている人もいました(父ですが)。それらが本当かどうかはさておき、確かに「そうでないこと」はいまだ証明されていません。決定論は論破されていないのです。
また、宗明理学は「すべてのものが互いに影響を及ぼしあっており、切っても切り離せない関係にある」と考え、因果の存在を強く信じる学問ですが、去年受けていた対話形式の授業では「因則を信じている以上決定論を信じざるを得ない」という結論が出ました。
まず、先生が「無限の可能性」を信じてはいらっしゃらないことを確認します。例えば、人が突然カエルに変わることは不可能だと考えていらっしゃると思います。
すると、先生は「『起こり得ること』と『起こり得ないこと』があって、『起こり得ること』の中から人は未来を選んでゆける」と考えていらっしゃることになります。
いくつかの未来のみがあり得て、他の未来はあり得ないとするなら、その区別には何らかの規則性があります。法則に従った区別がないなら、『起こり得ること』と『起こり得ないこと』はランダムに決まり、無限の可能性があるのと同じことになってしまいます。(人がカエルになることも、二分の一の確率で『起こり得ること』になる)
そして、法則にしたがった区別というのは、条件を細かくしていけば最後の2つを1つと1つに区別することが可能です。2つが違うものであるなら、必ず区別できる点があり、分けることができるからです。
故に、区別の法則を使って未来の可能性を限定するなら「最後の2つを1つと1つに区別することが可能」であることを認めなければならず、「最後の2つを1つと1つに区別することが可能」であるなら、理論的には「将来実現するかどうか」という違いさえも区別できることになります。時間の流れが一つだけならば、実現するものはどちらかただ一つです。
『起こり得ること』と『起こり得ないこと』があると考えるということは、情報さえ十分にあればただ一つの未来を特定することも可能だと見なすということなのです。
論理的には、「この世の動きには法則性はなく、何が起こってもおかしくない」と考えるか、「一つの原因につき一つの結果しかなく、宇宙が始まった瞬間に原因と結果の連鎖が始まっているため、未来は決まっている」と考えるかのどちらかしかありません。
そもそも、人は推測をする生き物です。推測するには根拠が必要です。不確定な要素は根拠にはなり得ないので、人は推測をする時、一つの結果に一つの原因が対応している(現在のこの状況からはただ一つの未来のみが生まれる)という因果法則、つまり決定論を、無意識のうちに前提としています。
私は、私たちがどのような志を持つか、どのくらい努力できるか、成功するかということも、世界が生まれた瞬間に決まっていたのだろうと思っています。そこが宗明理学とは相容れないところです。
【決定論でも絶望しない考え方】
「人生は小説を読むようなもの」とほぼ同内容なのでそちらを参照してください。
【能動性と受動性について】
諦めることと、立ち向かおうとすることは、同じだけの意志やの強さをもって選択したならば同等の能動性を持つはずです。
だから諦めることも能動的な行為ですし、物質やエネルギーのレベルで考えれば、思考力のない人間も、非生物も、自らに内在する理によって能動的に活動しています。ただ存在するだけでも、能動的であらずにはいられません。あらゆる受動は世界が自らの能動性によって世界自身に与えている影響の結果であり、つまりは自分の意志で動いているのと同じです。
もし先生のおっしゃるように能動性を奪うことが悪ならば、この世に悪は存在しえないことになります。
ありのままの世界を天理の表れとして肯定した程明道は、一貫した思想を持っているのだと感じました。私はこの世に悪(嫌うべきもの、なくすべきもの)はないと考えているので、程明道の考え方が一番しっくりきました。