2012月4月17日
大学の期末試験で書いたこと。
お題が「授業を受けての感想」だったので敬体です。
宗明理学と僕 5
【前書き:相互制約とは】
先生が「万物が万物と相互連関し、万物の動きに制限をかけている」ということを示すのに使った言葉。
例えば石油の量には限界があるということが、人間が石油を使い続けるということに制限をかける。
どんなに武力や財力があっても石油がなくなったら石油を使うことはできない。
◆
【相互制約】
「相互制約」という言葉が非常にしっくりきて、気に入りました。
私はこの授業の試験で何度も言っているように、この世に「してはいけない」ことはないと思っています。
しかし、当然と言えば当然ですが、相互制約により「できない」ことは数多くあります。
自分の幸せのためなら極悪人と罵られようとも何でもするという人に、「環境破壊や富の独占は悪だからやめろ」と言っても、まったく心には響かないでしょう。
しかし、「そのまま目先の利益だけを追っていくと、バランスの崩れた自然や経済が悪い状況をもたらして、あなたの幸福な人生を転落させますよ」と忠告した場合は、善悪という主観的な価値判断を含まないが故に、ストレートな説得力があります。
私のように善悪を信じない人間を説得するためには、善悪ではなく正誤でその人の行為を判断して話しかけなければなりません。
宋明理学の教えを広めたければ、「最高善たる天下太平のために尽力せよ」ではなく、「天下太平はすべての存在にとって最もよい状態、つまりあなたにとっても最高の状態なので、自分が幸せになりたければ世界全体の調和を考えてください」という言い方をした方がいいと思います。
特に、先生がこれを確定した真理ではなく一つの仮説・理念型であると自覚していらっしゃるならば、その方がニュアンスを適切に伝えられると思います。
「幸せになりたければすべてを愛する仁者になれ」と言われたら、私はその通りと頷きます。
好きなものは多ければ多いほど幸せになれますし、好きなものの喜び(生成化育)はそのまま自分の喜びなので、世界のすべてを愛することができたら大変な幸せ者になれます。実際、自分ではその状態だと思っている私は、いつも幸せです。
相互「制約」と言うと、不自由で苦しい語感かも知れませんが、その制約のおかげで私は幸せなのだと感じます。
私の手がものをすり抜けたりしないように制約されているからこそ、私は自由に動けない代わりに、愛しい世界に触れることができるのです。
相互制約という言葉は、そのニュアンスを見事に表現した言葉だと思います。
【宋明理学の穴】
宋明理学は幸せになりたい人にとっては非常に有意義な教えですが、幸せを望まない人、破滅を望む人を説得する力は持たないのだと、一年間授業を受けてきて思いました。
「全体のバランスを考えないと自分も不幸になる」と言っても、自分や子孫が不幸になることを厭わない人にとっては意味のない言葉です。
「幸せになりたくないし、幸せになりたいと思うようにもなりたくない」。そのような人に、宋明理学はどう接するのでしょうか。
まずは医者に治療してもらわないと、宋明理学自身にできることはないのでしょうか?
私は、薬などで無理矢理その心を「正常」な(麻木不仁でない)状態に矯正してしまうのは、その時点でのその人の個性や信念を否定することになるので、嫌なのです。
しかし幸せにはなってほしいので、話し合いで納得してもらえるのが一番だと思います。
宗明理学はその方法を教えてくれるかも知れないと思ってわくわくしていましたが、そのようなことはなく、残念でした。