2012年7月15日
大学の授業のリアクションペーパーの一部を抜粋。
人は自然に生まれた宝石を称賛するように、それが誰の功績でもないと分かっていても、生まれつきの容姿や才能を称賛します。また、その生得的性質の持ち主は、それが自分の功績ではないと分かっていても、本能的に嬉しく思うものです。
例え世界が決定論的に進んでいて、努力も成果も個人の功績でないとしても、人には「美しいものがある」ということそれ自体に価値を見出す本能があります。
個人の徳が否定された世界(※)においては、「あなたはすごい」は「あなた自体には何の価値もないが、あなたを生み出し、あなたにそのような行動を取らせたこの世界はすごい」に変換されます。
それでも、「あなた」は何故か嬉しくなってしまわないでしょうか。
それは、世界が完全な決定論で進むなら、自分の行動(どんな感情を持つかも含めて)と世界の現象の間には何の境もないため、「あなた」は世界の一部として世界への賛美を受け取ることができるからではないかと思います。
私はこのように考えているので、人に「誰の功績でもないものを称賛する」性質がある限り、世界が決定論的に進んでいても、人は互いの存在に価値を見出し称賛することができると思います。
※個人の徳が否定された世界
例えば、
「ハーバード大学に入学できたのは、勉強・進学させてもらえるほど豊かな環境(国、家など)に生まれたから/遺伝によって生まれつき勉強や努力が得意だったから」
↓
「人は自分の生まれを選べないのだから、そういう状況の中に生まれてこられたのは本人の功績によるものではない」
↓
「ハーバード大学に入学したことも、そのために努力したことも、偶然の産物であって個人の功績ではない」
という論理で、誰が何をしても、個人の功績・責任ではないとする世界観のことです。
この考え方では、どんな親切をしても褒められる権利がなく、どんな加害行為に対しても責任を追求できないということになるので、一般的には“言っちゃいけないこと”になっていると思います^^;
しかし僕は、「誰の功績でもないものを称賛する」という人間の性質に目を向けることで、この問題を解決できるのではないかと思っています。
(僕自身は決定論者です。詳しくは他のテキストで)