※専門家でも何でもない、一介の大学生が授業で作成したレポートです。この文章を「参考文献」にしたり「引用元」にしたりしても、あなたの論文の信頼性を高めることはできません。ご注意ください。
また、後半の考察は一介の学生の意見でしかありません。ご留意ください。
2012年8月24日
デカルトは、「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」という一つの命題から、連鎖的に様々なことを証明しようとした。
デカルトは、100%真と言い切れないものは偽とみなすという徹底した懐疑主義の立場を取っており、真実を見つけるためにまずはすべてを疑ってかかった。
その結果、感覚的なものは錯覚かも知れず、思考や理性も夢かも知れないが、「それらを疑っている私」が存在するということだけは疑いようのない真であった。
自分が自分だと思っているものすら夢の人格だったとしても、それを夢かも知れないと疑う主体としての「私」だけは必ず存在する。これが「我思う、故に我あり」の内容である。
自分が何かを疑っているということから、自分に分からないことがあるということは明白である。つまり自分の不完全性がおのずと知られるのである。
不完全性とは完全性を否定して成立する概念だ。
よって、不完全性を知っているなら、完全性も知っているということになる。
この論理にはスコラ学の「肯定は否定に先立つ」という前提が利用されている。
例えば、あるものが非Aであると分かるためには、Aが何であるかを分かっている必要がある。そうでなければ、あるものがAであるのか非Aなのか判別できないからだ。
さて、完全性とはすなわち神である。
デカルトは、自分が不完全な存在であると知ると同時に、不完全があるなら完全=神もあるということを確信した。
完全な存在である神は完全な善であり、完全な誠実さを持っているので、人間をあざむくといった悪を働かない。このことから、「疑っている私」以外のものはすべて偽ではないかという懐疑は解除される。
そして、神から与えられた明晰判明な観念は真であり、この観念を正しい方法で使えば真理に到達できると主張するに至った。
こうして、デカルトは「我思う、故に我あり」から出発し、神の存在証明と明晰判明な観念が真であることの証明を行った。
しかし、私の見たところ、デカルトの言説には不完全な点がある。
まず、完全・至善の神の存在を自明のものと考える点についてだが、自分に分からないことがあるということから知られる不完全性とは、厳密にいえば自分の「知識の不完全性」である。
よって自分に分かっているのは「すべての面においての完全性」ではなく、「知識の完全性」だけだ。
この世のあらゆることを知るコンピュータがあったとしても、完全な(最善の)人格を持つとは限らないように、知識の完全性からは道徳的完全性を証明できない。
このことから、神は誠実なので人間をあざむかないという主張は成立しないと言える。
誠実な神が存在しない可能性がある限り、神から与えられた明晰判明な観念(だと自分で思っているだけかも知れないもの)も、アプリオリな直観も、真と断定することはできない。
次に、不完全な存在である人間が、本当に完全性を理解できるのかという問題だ。
分からないことがあるという状態(不完全性)は明晰判明に理解できても、すべてが分かるという状態(完全性)を明晰判明に理解しているとは考え難い。
完全性と不完全性を判別することは可能だが、それは完全性の何たるかを具体的に知っているということの証明にはならない。何故なら、スコラ学ではAが何であるかを知らなければあるものがAであるのか非Aなのか判別できないとされているが、実際にはAの全貌を知らなくとも、「少なくともAではないもの」さえ分かっていればそれを非AとしてAと判別することができるからだ。
アンセルムスの神の存在証明に対してトマス・アクィナスが行った論駁を思い出す。
アンセルムスは、神を「それより大いなるものが考えられないもの」と定義した上で、
「実在するものは実在しないものより大いなるものだから、それより大いなるものが考えられないものという概念の内にすでに『実在する』という性質が含まれている。それより大いなるものが考えられないものを思い浮かべるという行為は、それが実在することを前提としていなければできない。
『それより大いなるものが考えられないもの』を意味のある言葉として理解し、思い浮かべることができたのなら、自分は神の存在を前提としていたのだということを認めるしかない」
と主張した。
それに対してトマスは、
「人は経験を通して定義(事実、本質)を知るのであり、自分で定義を作れるわけではない。
神以外のものの定義すら自分で作ることができないのに、ましてや神を定義できるはずがない。
よってアンセルムスによる神の定義は真実として扱うことができない。
また、神を経験したことのない人間が神の観念を正しく理解し、思い浮かべることはできないので、アンセルムスの言う方法では神の存在は証明できない」
と指摘した。
もしトマスにデカルトの意見を聞かせたら、明晰判明と言っても分かったような気になっているだけだと批判するだろう。
自分が不完全な存在であると理解することからは、完全性の概念を明晰判明に理解していること、及び完全な存在が実在することは証明できていないように思われる。
このようにデカルトの主張は不完全であるとは言え、「我思う、故に我あり」によってこの世がまったくの無ではないことを論理的に証明したというだけで、キリスト教徒以外の人間から見ても十分偉大な功績と言えるだろう。
私たちは普段、世界は「有」であると信じて疑わないが、本当に世界が「有」であることを論理的に説明するのは難しいことではないだろうか。
「今私はここにいるし、あなたもそこにいるでしょう」と言うだけでは、論理的証明とは言えない。
肉体も精神も本当の「有」であるとは言い切れない。
しかし、例え自分の心身が夢の産物であったとしても、夢を見ている何者かがいるということは疑いようのない真実なのだ。
※アンセルムス、トマス・アクィナスの主張が 「 」 内に書かれていますが、これは引用であることを示すものではありません。僕が勝手にまとめたものです。