2011年7月28日
※大学の授業で提出するレポートとして書いたものなので、参考程度にはなると思いますが、本格的に勉強するには不十分です。詳しいことが知りたい方はご自分でお調べください。
1.ホッブズの自然法論
人は心身ともに、生まれながらにして平等である。多少の差異はあっても、人と違う便益を主張できるほど顕著な差ではない。
身体能力の差は、どんなに弱い人々であっても協力すれば強者を倒すことができる程度なので、平等の範囲内である。
精神の能力については、多くの人が「自分より頭のいい人はいくらかいるが、大多数の人よりは自分の方が賢い」と自惚れることができ、自分の知性に満足していることから、その平等が裏付けられる。
しかし、平等であるということは、何かを欲してそれを手に入れる能力も平等であるということである。
複数人が数の少ないものを希望すると、希望の平等ゆえに敵同士になる。
欲しいものを獲得したとしても、敵が奪いにくるかも知れないという不信が生まれる。
つまり、平等から不信が生まれるのである。
相互不信から自己を安全にしておくためには他者を支配する必要がある。
そのためには仲間が必要だが、仲間は往々にして自分が求めるより低い評価をするため、より高い評価を求めて仲間同士で争いが起こる。
自然状態は「万人の万人に対する闘争」であり、人々は常に競争・不信・誇りを原因とする戦争状態に置かれる。
戦争状態の中では利益が保証されないので勤労せず、生活は孤独で貧しいものになる。
このような戦争の諸不便から抜け出すために、理性は条項を作り、人々を平和に向かわせる。
これが自然法、および政治状態の始まりである。
自然法は自然権を前提している。自然権とは、自己保存のための手段選択の自由を指す。
各人は平和を獲得する希望がある限りそれに向かって努力すべきであり、獲得できない場合は自然権を行使して、自己保全のために戦争してもよいというのが、基本的自然法である。
第二の自然法は、平和獲得という自己利益のために、お互いに同じ程度、自然権の一部を放棄せよというものである。
権利の相互的な譲渡を契約と呼び、その中でも将来における相手の履行を信頼した契約を信約という。
なお、死から逃れようとする権利は譲渡できない。例えば、死刑囚は自然権を行使して逃亡してもよい。
第三の自然法は、信約を履行すべきだというものだ。この自然法が正義の源泉となる。
2.ルソーの社会契約論
ルソーの考える自然状態は、ホッブズが考えたものよりも穏やかである。
文明人は過度に自己利益を求めるが、美徳を知らないと同時に悪徳もまだ知らない自然人は、自己保存のために身を守ったとしてもわざわざ他人を害そうとはせず、戦争にはならない。
自然人は適度な自己愛と憐みの情を持っている。それに、自然状態では人はそれほど多くないから、財も奪い合いになるほど希少ではない。
しかし、技術の発展とともに所有という概念が生まれると、財産の大きさや能力の高さで序列が定められ、不平等が生まれる。
やがて、裕福な者は他人の奉仕を、貧乏人は他人の援助を必要とするようになった。人々は自由で独立した状態から、不安を抱えながら人間関係に縛られる不自由な状態に移行したのだ。
富裕層は支配と所有の快楽を得る一方で、権力を失うことに怯えていた。そこで、争いを避け、自分の権力を守るために、法と社会を作った。
社会の正当性の根拠は、民衆の全員一致の合意である。
合意を得るためには、社会は、すべての人々が結びつきながらも自分にしか服従せず、自由であり続けることができるものでなければならない。
その結果、社会契約の内容は「社会のすべての構成員は、みずからと、みずからのすべての権利を、共同体の全体に譲渡する」というものになる。自らを社会全体に与えれば、自らをある個人に与えるということは不可能になり、自由が実現されるからだ。
一般意志(主権者としての社会の構成員)が、特殊意志(被治者としての社会の構成員)を自由であるように強制することによって、人々は自然状態における自由を失う代わりに、社会的な自由と所有権を手に入れることができるのである。