2010年
※専門家でも何でもない、一介の大学生が授業で作成したレポートです。この文章を「参考文献」にしたり「引用元」にしたりしても、あなたの論文の信頼性を高めることはできません。ご注意ください。
※参考図書として、「危機の神話か神話の危機か―古代文芸の思想」(著・伊藤益)を与えられています。
【論題】
人麻呂神話とは何か?
そしてそれは、同時代的な普遍性を持ちえたのか?
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「人麻呂神話」とは、柿本人麻呂が和歌を詠むことによって作り上げた個的な神話である。
彼は、天武天皇を高天原から降臨した神とし、さらにはその妻や子孫までをも、神々を従える偉大な神として神格化した。
人麻呂神話は、持統四年(六九〇年)ごろに詠まれた草壁皇子への挽歌を発端とする。
その内容は、草壁皇子の父・天武天皇を、天照大神から直々に地上統治の命を受けて降臨した神として扱い、草壁皇子を含むその子孫の主権を正当化するものだった。
本来、記紀神話においては、天照大神から日本の統治を委任されるのは天孫ニニギノミコトである。
人麻呂は「幻視」の手法を用いて、天武天皇とニニギノミコトを重ね合わせたのだ。
これには、天武時代は天智時代とは一線を画した新たな時代であることを示す意図があったと考えられる。
人麻呂は、壬申の乱の戦火で近江の都が荒廃し、天智時代が終わる様を目の当たりにした。
現人神である天皇は不滅であり、その営みも不滅でなければならないのに、天智天皇は即位後わずか四年で崩御し、都も滅んでしまった。
その事実が、人麻呂に神話の危機を感じ取らせたのである。
彼は理性で解決できない不安や悲しみを払拭するために、新たな神話を生み出した。
天武天皇を天より降り立った神とすることで、天智以前の滅びの歴史をリセットし、永遠に栄える時代の到来を願ったのだと解釈できる。
人麻呂は天武天皇の妃である持統天皇の庇護のもと、宮廷歌人として人麻呂神話を歌った。
持統天皇はもちろん、当時十歳で皇太子ですらなかった草壁皇子の遺児、軽皇子をも神格化し、天武天皇に連なる皇族をひたすら賛美することで神話の危機を乗り越えようとした。
天武時代がそれまでと違う新しい時代であるという時代区分意識は、「続日本紀」に記された当時の時代区分意識と一致している。
このことから、人麻呂神話は同時代的な普遍性を持ち得たかのように思えるが、実際にはこの神話はその名の通り、人麻呂個人の神話として扱われてきた。人麻呂神話は普遍的な神話にはならなかったのだ。
それは何故か。原因は主に二つ考えられる。
一つは、持統天皇以降殯が行われなくなくなったことだ。
殯で挽歌を詠むのは、人麻呂神話を広める絶好の機会であったが、仏教式の火葬が導入されたために人麻呂は挽歌を詠む場を失ってしまった。
もう一つは、当時の国法制定権力を握っていたのが、天皇ではなく藤原氏であったことだ。
藤原氏にとって、天皇は国法を制定するための権威であり、機能であった。
人麻呂は天皇の神威を世に知らしめようとしたが、実際には、天皇が表に出れば出るほど、神ではない人間としての弱さが露呈することになる。
権力の根拠として、弱みが見えないほど匿名性の天皇が求められた当時、人麻呂神話は不必要なものだったのだ。
こうして、持統天皇の没後、人麻呂は宮中からひっそりと姿を消した。
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【感想】
人麻呂の歌が皇族のご機嫌を取るためのものではなく、本心から詠んだものなら、彼は時代の滅びに怯えて、神格化した皇族への信仰に救いを求めたということですよね。
女性や子供に神性を見出し、独自の神話にすがっていた人麻呂を想うと、少し切なくなります。
しかも、敬愛していたであろう天武天皇・草壁皇子・持統天皇に先立たれてしまうのですから、かわいそうな人だと思いました。
この哀れ具合、萌えますね`・ω・´ ←