※専門家でも何でもない、一介の大学生が授業で作成したレポートです。この文章を「参考文献」にしたり「引用元」にしたりしても、あなたの論文の信頼性を高めることはできません。ご注意ください。

 

※参考図書として、「古代中国天命思想の展開――先秦儒家思想と易的論理――」(著・佐藤貢悦)を与えられています。

 

2012年5月23日

荀子について

  

1.孟子の性善説  

 

荀子の思想は孟子の性善説への反論として生まれた。まずは孟子の思想を簡単にまとめる。

 

孟子は性を「耳目之官」と「心之官」に分けて考えた。

耳目之官は身体的な感覚作用を、心之官は精神作用を指す。

そして、心之官にはそれを拡充すれば徳者になれる「四端」(惻隠・羞悪・辞譲・是非)が先天的に備わっていることを説明して、人間の生まれつきの本性の中に善があるという性善説を打ち立てた。


しかし、四端のうち惻隠に関しては「幼子が井戸に落ちそうになっていたら誰でも惕惻隠の心(はっとしていたましく思う気持ち)を持つ」という例を挙げてその存在を証明しているが、他の羞悪・辞譲・是非については論理的な存在証明がなされていないという問題がある。

また、仮に四端について完全な説明がなされたとしても、それは心之官の善性を証明するにとどまり、性のもう一つの側面である耳目之官の善性は証明できない。


孟子は、耳目之官は欲望であり、善の欠如であると捉えていた。

修養して大人(君子)になった者なら、自分で何が性かを取捨選択できるので、耳目之官を性とは呼ばないとさえ言っている。

耳目之官を抑制しなければならないという主張には、何故欲望が善の欠如、つまり悪であるのかについては説明がないという論理的欠陥があるが、ここで指摘したいのはそのことではない。孟子が耳目之官を善なるものとして見てはいなかったということが重要なのだ。


性善説という言葉は、「人の本性は耳目之官も心之官もすべて生まれながらに善である」という意味に聞こえがちだが、上記のことから、実際の孟子の主張は「人の本性の中には善の端緒が生まれつき備わっている」というものだということが分かる。

つまり、「人は生まれた瞬間は完璧な善人で、生きていくうちに悪に染まっていくという」性善説理解は誤りで、むしろ孟子の性善説は四端の拡充を要請する修養論なのだ。

 

 

 

2.荀子は何を「性」としたか

 

荀子も孟子と同様に、性を感覚作用と精神作用の二面に分けて考え、感覚作用を「五官」、精神作用を「心之官」と呼んだ。


心之官の理解に孟子との違いがある。

荀子は、心の官の働きは計算ただ一つであると考えた。

人は、「好利」の性質に従って利益を求めることも、五官を抑制して欲望を我慢することもあるが、どちらも計算によるものである。

群(社会)に順応してその恩恵を受けるためには、五官を抑制した方が結果的に有利であることがある。人が五官を抑制している時は、そのような計算が働いているというのだ。


しかし、生まれたばかりの赤ん坊は計算ができない。

荀子はこの状態を指して「性」と言い、これを悪と判断したのである。

では、具体的に荀子の善悪とはどういうものなのだろうか。

 

 

 

3.荀子の善悪

 

まず、荀子の善悪の基準は、行為者の動機ではない。結果である。
そして荀子は、社会秩序を保つ結果を生む行為を善と呼び、社会秩序を乱す結果を生む行為を悪と呼んだ。

赤ん坊は意識して社会秩序を乱そうとしているわけではないが、社会秩序に貢献するような行動もせず、自分の利益だけを求めて泣き喚き、結果的に秩序を乱すので、悪と判断される。

これが「性悪説」と呼ばれるものの正体だ。


孟子の考え方は行為者の動機から善悪を判断する「動機説」なので、「結果説」の荀子は孟子への反論を行いながらもまったく異なる価値観を前提としていたことになる。そのため、両者の思想は対比できるような構造にはなっていないということに注意しなければならない。

 

孟子的な意味で「性悪説」という言葉を使うなら、「人の生まれつきの性質は積極的に他者を傷つけようとすることである」という意味になろう。

しかし、荀子の言う「性悪説」は、「人は教育を受けなければ社会秩序を保つ方法が分からず、結果的に秩序を乱してしまう」という意味だ。

荀子も、人の本質が「積極的に他者を傷つけること」であるとは考えていなかった。彼も結局は儒家の人間であり、儒家に「人の生まれつきの性質は積極的に他者を傷つけようとすることである」という意味の性悪説はなかったということが分かる。
 

 


4.荀子の天論

 

中国において、天は初めトーテムであり、多民族それぞれが持つ複数の神だった。

それから儒教において唯一の人格神に統合され、荀子の頃には段階的に人格神から物理的な自然へと捉え方が変わり始めていた。
この時代の天には、自然法則としての性格と道徳律としての性格が同居していた。

天(自然)が万物を生み出しているという考え方は共有されていたが、天に人格があって意識的に自然現象を起こしているのか、ただ機械的・物質的に現象が起きているだけなのかは、はっきりとしていなかった。


天に道徳律を求めた孟子は、それに対応する心之官を重視し、自然律に対応する耳目之官を軽視した。

 

それに対して荀子は、孟子が称揚した道徳律としての天を低く見、孟子が克服すべきものとして扱った耳目之官に対応する自然律としての天を肯定した。


荀子は天理を、善悪とは無関係の、完全な物理的自然法則として捉えていた。

彼曰く、天(自然)に善悪はない。人が悪事を働いても天罰はない。暴君として知られる桀や紂の時代でさえ季節は法則的に移り変わっていたのだから。

彼は同様に人の本性も自然律として捉えた。

彼の世界観では、人の本性に道徳的な意味での善や悪はなかった。

 

 

 

5.善なる存在になる方法

 

荀子は、人は作為によって初めて善なる存在になると考えていた。

聖人の作った礼を学び、どうすれば社会秩序が保てるか正確に計算できるようになれば、誰でも聖人になれるとする。

孟子が先天的性善説なら、荀子の考えは性悪説というより後天的性善説と呼ぶのが適切かも知れない。荀子は努力を重視していたと言えよう。


しかしこの考え方には重大な欠陥がある。

それは、聖人の作った礼を学ばなければ聖人になれないのなら、最初の聖人はどうやって聖人になったのかという疑問が発生する点だ。
前例なくして聖人となった最初の聖人の誕生を説明するためには、孟子の言う通り、人には生まれつき聖人になるための端緒が備わっていると考えるしかない。

荀子の思想はここで挫折していると考えざるを得ないだろう。

 

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