卒業論文 日本人の「食」の思想
第一章 屠畜を経験しなかった日本
日本人は明治時代まで肉を食べなかった――常識としてはおおむねそのように理解されているが、「肉をまったく食べなかった」と考えるのは誤りである。
魚介類はよく食べられていたし、民衆の間では狩猟によって得られた鳥獣の肉も口にされていた。では何故肉を食べなかったと言われるかというと、日本では牧畜が行われてこなかったからだ。肉を常食としていた牧畜民族と比べれば、たまに狩猟で得た肉を食べるだけの日本人は「あまり肉を食べなかった」と言える。
長い間食用家畜を持たなかったことは、日本文化史の大きな特徴である。原田信男▼[1] によると、「日本が属するアジアモンスーン地帯では、高温多湿な風土をベースとして、米に魚とブタをセットとした食文化が、紀元前から各地に広がっていた」。しかし、日本の古代国家は肉を食べることが稲作の障害になると考え、政策として肉食を禁じるという「ユニークな決断」を下した。こうして日本は、「ブタ飼育の欠如という東南アジア・東アジアに類例をみない特異な米文化を発達させるところとな」り、また「世界に名だたる魚食国家となった」のだ。
天武4年(675年)4月17日に最初の肉食禁止令が発布されてから、明治4年(1871年)12月17日に禁が解かれるまで、実に1200年もの間、日本では肉食を忌避する文化が醸成されていった。そのため、労働用の牛馬はいたが、食用家畜を飼育する産業は成立し得なかった。 日本の食文化の方向性を決定づけた肉食禁止令は、どのような目的で発布されたのだろうか。『日本書紀』巻第二十九には次のように記されている。
庚寅に、諸國に詔して曰はく、「今より以後、諸の漁獵者(すなどりかりするひと)を制(いさ)めて、檻(をり)穽(ししあな)を造り、機槍(ふみはなち)の等(ごと)き類を施(お)くこと莫(まな)。亦四月の朔(つひたちのひ)より以後、九月三十日より以前(さき)に、比彌沙伎理(ひみさきり)・梁(やな)を置くこと莫。且(また)牛・馬・犬・猨(さる)・鷄の宍(しし)を食ふこと莫。以外(そのほか)は禁(いさめ)の例(かぎり)に在らず。若し犯すこと有らば罪(つみ)せむ」とのたまふ。▼[2]
詔の内容を確認すると、禁止されているのは、今後全期間において特定の方法で狩りをすること、4月1日から9月30日までの間に特定の方法で漁撈を行うこと、そして牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べることの三つである。その他の漁猟や肉食は禁じないともある。
中村生雄は、この法令を無造作に「仏教の不殺生の教義が日本社会に受け入れられた端的な証拠」▼[3] と見なすことは間違いであると指摘している。特定の方法での漁猟、特定の時期の漁猟、特定の動物を食べることのみを禁止し、わざわざ「以外は禁の例に在らず」と但し書きをしていることからは、「むしろ肉食禁止をできるだけ狭い範囲にとどめようとする配慮が透けて見える」▼[4] 。そのため中村は、「当代の政権が仏教的な不殺生の理念を政策面に導入しようとしたとはとても判断できない」▼[5] と主張している。
中村が他に注目しているのは、肉食禁止令はこの後もたびたび出されているが、それは「天候不順で凶作が予想されるとき、それから天皇や皇后などが危篤の病にかかったとき」▼[6] であり、しばしば肉と酒がひとまとめにされて禁止の対象となっているという点だ。それを確かめるため、私は江原絢子、東四柳祥子が編纂した『日本の食文化史年表』を参照した。下にあるのは、『日本の食文化史年表』から肉食・殺生禁止令に関する主な記述を抜き出し、年表にしたものである。(一部、言葉を補うなどの改変を加えている)
西暦 | 天皇 | 出来事 |
675年 | 天武天皇 |
先に述べたので省略する。 |
691年 | 持統天皇 |
持統天皇、4月からの季節はずれの長雨が農作物を損なうのではないかと 懸念し、公卿、百官に酒肉を断つことなどを命じる。(『日本書紀』) |
722年 | 元正天皇 |
この年の夏は雨が少なく、不作だった。元正天皇、路上の腐肉や骨を 土の中に埋め、飲酒を禁じ、殺生を止めさせるよう詔する。(『続日本紀』) |
730年 | 聖武天皇 |
日照りが続き、穀物不足が懸念された。 檻での鳥獣捕獲、猪や鹿の殺生を禁止。(『続日本紀』) |
732年 | 聖武天皇 | 干ばつに際し、酒・殺生禁止。(『続日本紀』) |
737年 | 聖武天皇 |
聖武天皇、毎月六斎日(月に6日の精進日)の殺生を禁じる。(『続日本紀』) |
755年 | 孝謙天皇 |
孝謙天皇の健康状態悪化のため、12月晦日までの殺生禁断。 (『続日本紀』) |
756年 | 孝謙天皇 |
聖武上皇(孝謙天皇の父)の喪に服し、来年5月30日まで、 全国にて殺生禁断実施。(『続日本紀』) |
758年 | 孝謙天皇 |
光明皇太后(孝謙天皇の母)の健康が優れないため、 大晦日まで全国での殺生を禁断。(『続日本紀』) |
770年 | 称徳天皇 |
このころ各地で飢饉が起る。称徳天皇、衣食を簡約にしていると詔する。 また、五辛(5つの辛い食物)、肉、酒を禁じる。(『続日本紀』) |
790年 | 桓武天皇 | 桓武天皇、日照りによる不作と飢饉を憂う。(『続日本紀』) |
791年 | 桓武天皇 | 牛を殺し、漢神に祀ることを禁じる。(『続日本紀』) |
確かに、肉食・狩猟・殺生の禁止は、不作からの回復や皇族の病の治癒を祈願して行われている。また、肉と共に酒が禁じられていたことも確認できた。中村は、肉食と飲酒に共通するものは殺生ではなく美食であることから、「仏教的な慈悲の教えのゆえに肉食が禁止されたのでない」ことを強調している▼[7] 。
さらに原田の説を取るなら、最初の肉食禁止令では「且牛・馬・犬・猨・鷄の宍を食ふこと莫」の部分にも「四月の朔より以後、九月三十日より以前」がかかっており▼[8] 、これは大化2年(646年)3月22日の孝徳天皇の詔にある「農作(なりはひ)の月に當(あた)りては、早(すみやか)に田(た)營(つく)ることを務めよ。美物(いを)▼[9] と酒とを喫(くら)はしむべからず」▼[10] という一文と密接に関係するという▼[11] 。
原田によれば、「肉や酒を断って心静かに悔過することが、古代においては稲を自然の災害から守る手段であった」▼[12] 。また中村によれば、当時酒肉を断つことには国土の清浄を保つという意味があった▼[13] 。大化の改新で稲作を基盤に据えた律令国家を作ろうとしていた新政権にとって、農耕期間に国土を清浄に保ち、稲作を守ろうとすることは当然の判断であったと考えられる。
殺生肉食の禁止は、それ自体が仏教的な慈悲の実践として「目的」とされていたのではなく、国家を安定させるための「手段」であった。
肉食禁止令は本来、発令後すべての肉食を禁じるものではなく、農耕期間や問題が起きた時にのみ民に精進潔斎を促すものだったことが窺える。しかし次第に、日本では全期間に渡って肉食が避けられるようになっていった。その原因は、「穢れ観」の発達にある。
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―― 【 目 次 】 ――
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要約
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序 | |
第一章 | 屠畜を経験しなかった日本 |
第一節 肉食禁止令の真意 ★現在地 | |
第二節 穢れ観の肥大化 | |
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第二章 | 殺生と向き合う思想の欠如 |
第一節 「かわいそう」との出会い | |
第二節 西洋における屠畜の正当化 | |
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第三章 | 殺生それ自体が残酷であるという意識 |
第一節 日本と西洋の動物観の違い | |
第二節 菜食主義に「偽善」を感じる日本人 | |
第三節 アニミズムと如来蔵思想 | |
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第四章 | 現代日本人は「食」とどう向き合うか |
第一節 無意識の殺生から自覚的な殺生へ | |
第二節 人間、動物、植物を同じ次元に置く | |
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結 | |
参考文献 | |
謝辞 | |
資料1 | ネット上での菜食主義議論 |
資料2 | 質疑応答(口頭試問) |
【脚注】 ▲[番号]をクリックすると元の場所に戻ります。
▲[1] 原田信男『日本の食はどう変わってきたか 神の食事から魚肉ソーセージまで』角川学芸出版,2013年,pp.11-12
▲[2] 坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注『日本書紀 下 日本古典文学大系68』岩波書店,1965年,pp.418-419
▲[3] 中村生雄『日本人の宗教と動物観―殺生と肉食―』吉川弘文館,2010年,p.52
▲[4] 同上,p.52
▲[5] 同上,p.53
▲[6] 同上,p.54
▲[7] 中村生雄『日本人の宗教と動物観―殺生と肉食―』吉川弘文館,2010年,p.54
▲[8] 原田信男『なぜ生命は捧げられるか――日本の動物供犠』御茶の水書房,2012年,p.263
▲[9] おいしいもの。原田によれば、魚や肉のこと。『日本書紀 下 日本古典文学大系68』の注によれば魚のことで、美物をイヲ(魚)と読むのは、「弘仁二年勅に「農人喫二魚酒一」などの例から推して美物を魚と解し、イヲと訓んだものであろう」とある。ここでは農耕推進政策として美食を禁じたことが分かればよいので、肉も美物に含まれるかどうかについては議論しない。
▲[10] 坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注『日本書紀 下 日本古典文学大系68』岩波書店,1965年,p.298
▲[11] 原田信男『なぜ生命は捧げられるか――日本の動物供犠』御茶の水書房,2012年,p.265
▲[12] 同上,p.266
▲[13] 中村生雄『日本人の宗教と動物観―殺生と肉食―』吉川弘文館,2010年,p.55