卒業論文 日本人の「食」の思想
第一章 屠畜を経験しなかった日本
原田によると、1800年代前期までは、「琉球との関係が深い薩摩」と「オランダ人・中国人の居住が許された長崎」以外では「食用を主要な目的としたブタ飼育は行われていなかった」▼[21] 。しかし、1858年に日米修好通商条約が締結されると、横浜港付近にも外国人が住むようになる。畜肉の需要発生に対応して、本州でも養豚事業が始まったが、供給された豚肉を口にしたのは外国人だけではなかった。江戸市民の間でも、豚肉食の需要が一気に拡大したのだという▼[22] 。
このように、開港直後から西洋人との接触によって自然と肉食文化が流入していたが、大政奉還の後には、肉食は明治政府によって積極的に広められた。欧米の文化を取り入れ、日本を近代化させるためである。
かつて天武天皇によって勅された肉食禁止令と、それを発端とする肉食禁忌の思想は、西洋化推進の障害となった。そこで、1871年、明治天皇は肉食解禁の声明を発表した。『明治天皇紀 第二』明治4年(1871年)12月17日条には、次のように書かれている。
肉食の禁は素と浮屠(ふと) ▼[23] の定戒なるが、中古以降宮中亦獣肉を用ゐるを禁じ、因襲して今に至る、然れども其の謂れなきを以て爾後之れを解き、供御に獣肉を用ゐしめらる、乃ち内膳司に令して牛羊の肉は平常之を供進せしめ、豕・鹿・猪・兎の肉は時々少量を御膳に上せしむ▼[24]
今まで仏教の戒律に従って肉食禁止を習慣としてきたが、いわれがないので禁を解き、天皇自らもこれからは肉を食べる、という宣言である。
以後の肉食普及の歴史については、原田の記述を要約する形で紹介したい。
仏教は文明開化を推進しようとする知識人や有力者▼[25] によって批判され、肉食が推奨されたが、庶民の間では仏教の不殺生戒よりも神道的な穢れ意識の方が問題となっていた▼[26] 。天皇の肉食再開宣言から二か月後には、精進潔斎を強く意識する山岳信仰者10名が、直訴と称して皇居に侵入しようとする事件が起きた▼[27] 。肉食のせいで日本全土が穢れてしまったという感覚は、「東京や横浜などの大都市を除けば、かなり広汎に受け入れられていた」と考えられている▼[28] 。
それでも牛鍋は流行し、福沢諭吉の「肉食せざるべからず」によると、1879年には日本人一人あたりの牛肉年間消費量は平均384g▼[29] ほどであったという▼[30] 。原田は「天皇の肉食再開宣言から一〇年にも満たない年月で、それまでマイナスのイメージのみを与えられていた牛肉が、急速に消費量を増加させていったことは大きく評価すべきだろう」▼[31] とコメントしている。
西洋文化は急ピッチで生活に取り込まれ、「明治維新から二〇年足らずで、洋食は大都市では幅広い階層に親しまれるようになり、全国的にみても中心的な都市には洋食店が存在するようになった」▼[32] 。
また、軍隊も肉食と洋食の普及に貢献した。「強健な身体を必要とする軍隊では、肉食が不可欠の糧秣とされ、徴兵制によって全国各地から集められた兵士たちに、肉食の機会を提供する絶好の場となった」▼[33] のである。多くの民衆が軍隊で肉食を経験し、1877年から1911年の間に、屠牛頭数は7~8倍の伸びを見せたのだった▼[34] 。
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―― 【 目 次 】 ――
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要約
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序 | |
第一章 | 屠畜を経験しなかった日本 |
第一節 肉食禁止令の真意 | |
第二節 穢れ観の肥大化 | |
第三節 文明開化と畜産業の開始 ★現在地
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第二章 | 殺生と向き合う思想の欠如 |
第一節 「かわいそう」との出会い | |
第二節 西洋における屠畜の正当化 | |
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第三章 | 殺生それ自体が残酷であるという意識 |
第一節 日本と西洋の動物観の違い | |
第二節 菜食主義に「偽善」を感じる日本人 | |
第三節 アニミズムと如来蔵思想 | |
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第四章 | 現代日本人は「食」とどう向き合うか |
第一節 無意識の殺生から自覚的な殺生へ | |
第二節 人間、動物、植物を同じ次元に置く | |
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結 | |
参考文献 | |
謝辞 | |
資料1 | ネット上での菜食主義議論 |
資料2 | 質疑応答(口頭試問) |
【脚注】 ▲[番号]をクリックすると元の場所に戻ります。
▲[21] 原田信男『日本の食はどう変わってきたか 神の食事から魚肉ソーセージまで』角川学芸出版,2013年,pp.148-149
▲[22] 同上,pp.151-152
▲[23] ブッダのこと。
▲[24] 宮内庁『明治天皇紀 第二』吉川弘文館,1969年,p.607
旧字体は新字体に改めた。
▲[25] 「肉食之説」(1870)の福沢諭吉、『安愚楽鍋』(1871)の仮名垣魯文、『牛乳考・屠畜考』(1872)の近藤芳樹、『文明開化』(1873)の加藤祐一、『開化問答』(1874)の小川為治、『開化の入口』(1874)の横河秋濤など。近藤芳樹、横河秋濤については、『日本食生活史』のpp.294-295を参照して名前を挙げている。
▲[26] 原田信男『日本の食はどう変わってきたか 神の食事から魚肉ソーセージまで』角川学芸出版,2013年,pp.154-155
▲[27] 同上,pp.156-157
▲[28] 同上,p.157
▲[29] 慶応義塾「肉食せざるべからず」『福澤諭吉全集 第8巻』岩波書店,1960年,p.455
福沢によると、1879年に屠殺された牛は3万550頭であり、一頭から取れる肉の量がイギリスの牛と同じで750斤だとすると、この年に消費された牛肉は約2291斤である。これを当時の日本人口3576万で割ると、0.64斤となる。福沢はこれを「半斤少餘」と書いた。1斤は600gなので、0.64斤は384gである。
原田は斤を英斤(ポンド)であると捉えているが、「肉食せざるべからず」ではイギリスの牛の肉の量を数える時も日本の牛肉消費量を数える時も同様に「斤」の単位を使っており、英斤を意味するとの記述はない。また、1ポンドを453.59gとすると0.64斤は約290gになるが、原田は単純に「半斤」=453.59g×1/2=約226gと換算したようである。「半斤」という言葉にとらわれ、全国の牛肉消費量を日本人口で割る行程を無視した計算なので、これは誤りである。
ここでは、斤が英斤を意味している可能性を否定することはできないが、「半斤」が384gであれ290gであれ、一人当たり年間3~4食分の牛肉を食べていたことが分かる。
▲[30] 原田信男『日本の食はどう変わってきたか 神の食事から魚肉ソーセージまで』角川学芸出版,2013年,p.162
▲[31] 同上,p.163
▲[32] 同上,p.168
▲[33] 同上,p.173
▲[34] 同上,p.173