卒業論文 日本人の「食」の思想
第三章 殺生それ自体が残酷であるという意識
私の考える限り、「植物を殺すことは悪いと思わないのか」という菜食主義批判に対する最もクリティカルな切り返しは、「肉食をやめて家畜を減らせば、エサとして食べられる植物を減らすことができ、人間が肉の代わりにより多くの植物を食べるようになっても、結果として地球全体の植物の消費量は減らすことができる」というものである。
菜食主義者は、建前として「できれば植物も殺したくない」と言うことがあるが、本当にそう考えているならこの切り返しを使うはずだ。しかし多くの場合、菜食主義者からの反論は「あなたは本当に動物と植物を同じ心持ちで殺せるのか」というものである。言わんとするところは、「強欲にも肉を食べたいがために、植物もかわいそうなどと思ってもいないことを言うのだろう、そんなお前に私を批判する権利はない」ということで、食べられる植物の命について考えるより、肉食者の「野蛮さ」をあげつらうことを目的とした言い方になっている。
現状では菜食主義者が「肉を食べなければ植物も救える」という論法を使ってこないために、多くの肉食者が「植物なら食べていいだなんて差別だ」と批判して勝った気になっているが、実際には菜食こそ動物と植物両方の死を減らすことができる方法なのである。本当にできるだけ命を奪わないように生きたいと切望している人がいたら、私は菜食者になることを勧める。
しかし、肉食という快楽を捨ててまで動植物を救おうとすることは、誰もにできることではない。他の生物のために自分の楽しみを制限することは、相当な精神力を要するからだ。ほとんどの人は、殺すのは悪いことだと思いながらも肉食を続けるだろう。
ベジタリアン先進国と言われるイギリスでさえ、全国民の16%が「広義のベジタリアン」であるにすぎない▼[73] 。しかも、これは動物愛護のための菜食主義だけでなく、健康・環境のための菜食主義をも含む数字である。
日本人は元より、肉を美食としてきた。肉食禁止令、穢れ観、不殺生戒がある中でも、「薬食い」と称して獣肉を食べたり、馬肉・猪肉・鹿肉を植物の名前で呼んで食べたり▼[74] 、ウサギを食べたいがために「羽」で数えて鳥扱いしたりして、一度も完全に肉食を断ったことはない。違法であっても、穢れであっても、罪悪であっても、それでもなお肉を食べたいという強い欲求があったのだ。それを抑圧することは、心身に大きなストレスをかける。
菜食は、殺生と向き合う手段としてとても強力である。殺生を罪悪視しながらも、できるだけ犠牲になる命を減らそうと努力することで、「食べられる植物はかわいそうだがやれるだけのことはやった」という納得感を与えてくれる。
しかし残念ながら、多くの人にはハードルが高すぎる。菜食者になれないなら、日本人は次点の「動物も植物も差別せずに食べる」ことを選ぶしかない。肉も野菜も食べ続けることを選択した日本人は、殺生とどう向き合っていくことができるだろうか。
【注意!】
専門家でも何でもない、一介の大学生の卒業論文です。
この論文を「参考文献」にしたり「引用元」にしたりしても、あなたの論文の信頼性を高めることはできません。ご注意ください。
ただ、引用元や参考文献一覧を見れば、参考になる情報が見つかるかも知れません。
論文の内容に関するご質問にはお応えできません。ご了承ください。
―― 【 目 次 】 ――
|
|
要約
|
|
序 | |
第一章 | 屠畜を経験しなかった日本 |
第一節 肉食禁止令の真意 | |
第二節 穢れ観の肥大化 | |
|
|
第二章 | 殺生と向き合う思想の欠如 |
第一節 「かわいそう」との出会い | |
第二節 西洋における屠畜の正当化 | |
|
|
第三章 | 殺生それ自体が残酷であるという意識 |
第一節 日本と西洋の動物観の違い | |
第二節 菜食主義に「偽善」を感じる日本人 | |
第三節 アニミズムと如来蔵思想 | |
第四節 肉も野菜も食べ続ける ★現在地
|
|
第四章 | 現代日本人は「食」とどう向き合うか |
第一節 無意識の殺生から自覚的な殺生へ | |
第二節 人間、動物、植物を同じ次元に置く | |
|
|
結 | |
参考文献 | |
謝辞 | |
資料1 | ネット上での菜食主義議論 |
資料2 | 質疑応答(口頭試問) |
【脚注】 ▲[番号]をクリックすると元の場所に戻ります。
▲[73] NPO法人日本ベジタリアン協会「Q&A」(最終閲覧日:2013年12月19日)
http://www.jpvs.org/QandA/index.html
広義のベジタリアンとは、乳製品や魚介類は食べるが畜肉(牛・豚など)は食べない「ノンミートイーター」のこと。
▲[74] 馬肉は桜、猪肉は牡丹、鹿肉は紅葉と呼ばれた。